相模原市南区磯部の勝坂遺跡公園近くの農園に「ざる菊園」がある。かつて牧草地だった磯部の傾斜地が土砂崩れ跡を土地の所有者(藤曲会長)が「何か作物を」と模索したのがきっかけで南足柄市で観賞した「ざる菊」に感銘を受け仲間と3人で栽培を開始したのが始まりである。2009年に発足した4年後には「第23回全国花のまちづくりコンクール」の団体部門で市内で初めて奨励賞に選出された。750坪ほどの緩やかな斜面に10種類、1300株の赤、白、黄色、ピンク、紫の「ざる菊」が植えつけられている。外見は本当に「ざる」を伏せたようにこんもりと丸い形をしていることから「ざる菊」と言われている。その「ざる菊」を主役とした「花見会」が11/1~15まで開催されておりあと3日を残すだけとなった今、全種の菊が満開となり園全体がカラフルな菊模様のグラデーションとなって美しさのピークを迎えている。(2311)
座間市入谷に江戸時代には座間宿村と入谷村の総鎮守で「お明神様」として親しまれている「鈴鹿明神社」は鎮座している。当社は第29代欽明天皇の御代(539年〜571年)に創祀せられた。伝説では伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、俄かの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし「鈴鹿大明神」と崇め奉ったと伝わめ。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘郷と言ったところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥と察せられる。当社はかつて東南西方平坦な水田でその中央一丈余りの高所に遙々大洋を望むかの如く鎮座し、境内は船の形をし、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様であった。その遠景を人は「舟形の森」、「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏もなく、地形も変動して面影はない。しかし神社の地形が前方後円墳にも似るところから、昭和39年に社殿の東側草地を発掘したところ、千五百年以前の「地下式住居跡」(約七坪)が発見され、古代の祭祀遺跡埋蔵されている事も想起され、かすかに昔日を偲ばせる。主祭神は伊邪那岐命、素戔鳴尊である。「鳥居」を抜けると池があり傍には境内社、左手に「神輿殿」、「手水舎」、「座間市戦没者慰霊碑」、正面に荘厳な「拝殿」、右手に「神楽殿」、「祖霊社」、「参集殿」がある。参道には七五三の旗が建ち一組の親子連れの七五三祝い中であった。(2311)