伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

環状島 トラウマの地政学

2009-06-16 00:02:39 | 人文・社会科学系
 被害者と支援者、傍観者等の位置づけ、被害・トラウマを語ることの可能性と語る者の位置を、臨床精神医のあるいはマイノリティ研究者の観点から、「環状島」のモデルを用いて概念整理し、被害者と運動・支援者、研究者の関係と可能性を模索した本。
 専門書でありながら、概念を可視化するためのモデル化という目的にあわせて、また被害者・支援者への共感にあふれているためか、とても読みやすい。研究者の位置づけや「知」=学問の役割を語る終盤は論文っぽくなり、これが最初に置かれていたら挫折しそうな文章ですが、著者の見解と提示する概念のアウトラインがすでにわかりやすく提示された後ですから、それほど苦労せずに読み切れました。最初からこういう構成を意図して書いたとしたら、かなり巧みな読ませ方といえるでしょう。
 著者の提示する「環状島」モデルは、世間で誤解されがちな、被害が重い者ほど被害を訴える力と訴える資格があるという(著者の例えでは円錐島)モデルには、現実性がなく、最も重い被害を受けた者は死亡したり精神的に壊れたり恐怖に震えて語ることさえできず環状島の内海の水面下に沈んで世間からは見えない存在となっていること、被害を語ることができる被害者は内海の水際から上がれた内斜面にいる相対的には被害の軽い(しかし絶対的には被害が軽いとはいえない)被害者であり、支援者は尾根の外側の外斜面に位置するというものです。
 被害者は常に内斜面で内海に引きずり込まれる重力に晒され、支援者は外斜面で被害者と関わり続けることの辛さから外界の傍観者へと落ち込む重力に晒されている、被害者と支援者は尾根を挟んで反対側にいて被害者にとって支援者は仲間(というより同類)ではない味方という位置づけという著者のモデルは、被害者と運動の関係を考える上でわかりやすく効果的なものだと思います。
 (最も)重い被害者しか語る資格がないとか、被害者でない(被害者のことを十分にわかっていない)支援者には語る資格がないとか、いつでも問題から逃げることができる支援者には語る資格がないなどの問いかけ/決めつけは、被害を語る者を消滅させ支援者を傍観者に変え、加害者を利するだけと、著者は説いています。
 味方ではあるが仲間(同類)ではない、支援者ではあるが当事者ではないという、支援者の位置は十分に理解されておらず、そこから被害者も支援者も傷つくことが多いという指摘は、貴重なものです。
 そして、問題の建て方次第で被害・トラウマの環状島は複数同時にありそれぞれの人が同時に複数の立場(ある問題では被害者・当事者であり、ある問題では支援者であり、ある問題では傍観者さらには加害者でもある)を持ちうること、被害者同士や被害者と支援者の間で全面的な同一化は元来困難で「でもこの点については譲れないよね」という共通点で部分的同一化をすればいい、被害者の象徴的代表となった者でもいつまでもそこにいなくていいなど、多くの側面を持つ人間という存在をそのままに認めて(潰れてしまうような)無理をしないでしなやかに連帯していきましょうというような著者の指摘は、被害者と運動・支援者への実務的で優しい視線を感じさせます。
 フィールドに入った研究者が「状況の悲惨さがくっきりと見え、あなたは声が出なくなる。内部事情に詳しくなればなるほど、事態は込み入りすぎて簡単なことは言えないと思う。声を挙げるより、まずは疲れ切った人たちを介抱するのが先だと、支援に徹する。あるいは声を挙げても事態は変わらないのだと諦めかける。今まで自分はあまりに単純に理解し語りすぎていたと感じ、自分が書いた本を抹殺したくなる。」(175ページ)とか、このあたりの研究者をめぐる話、涙ぐましい。
 差別をなくす責任を一手に引き受ける「理想の原告」を求めることの無理という指摘(105ページ)は、弁護士としては忸怩たる思いを持ちますが。


宮地尚子 みすず書房 2007年12月19日発行
コメント
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