女の生き様をテーマに、読者からの悩み相談の形式を取りつつ書き綴ったエッセイ。
著者自身のさまざまな恋愛、母との対立・母への反抗、摂食障害や自傷行為の経験に基づき、「あたしはあたし」「あなたはあなた」の自己肯定、子どもに対する全肯定とともに育児(や介護)はがさつ・ぐうたら・ずぼらを基調とした回答が中心となっています。
ダイエットをめぐって、「自分はなぜやせたいか」「やせたほうがきれいだから。やせたほうが服が似合うから。当然です。わたしだってそう思っています。でもその似合う服は、誰が考えた?世間が考えた。それが似合う女がかわいい、きれいだ、すてきだという考え方も、世間が作った。世間が作り上げた価値観にうまうまとのっかって、この自分を否定する。いいのか、自分?」(21ページ)という問いかけをし、大根足と言われて自分の脚と大根を比べて大根と同じ太さの脚ならそれは「細い脚」と呼ばれるべきだと認識し、「その後も『大根足』と言われるたびに、心の中で、『こいつら語彙が貧弱、あたしの脚は大根よりずっと太い』とせせら笑っておりました」(24ページ)と飄々と語り、しかしながら自分自身は摂食障害を経験し(50ページ~)さらに「わたしは、摂食障害になったこと、苦しんだことは、後悔していません。食べ物のことを考えるしかなかったあの日々は充実してました。苦しかったけど、もしかしたら、楽しかったのかもしれません。」(53ページ)と語れるあたり、懐の深さが感じられます。
「よくよく考えつめると、恋愛なんて、相手を思いのままに動かせるという自分の力を感じたいだけ。蹂躙したい、とまでは言いませんが、支配したい、にとても近い。どんな穏やかな恋人たちだって、しょせんは、あたしは強いから相手に力を及ぼしている、おれは強いから相手に力を及ぼしているという喜びが、『自分が好き』という感情のまわりをぐるぐるまわっているだけなんじゃないですか」(45ページ)という恋愛観。他のパートでも繰り返し語られていますので、確信を持っているのだと思いますが、そういうものでしょうか。著者自身、「性のこともからだのことも書いてきましたが、恋愛については五十近くなるまで書けなかったような気がします」というように、この項目を「つづく」で終わらせているように、簡単には悟れず総括できないのだろうと思います。
伊藤比呂美 岩波新書 2014年9月26日発行
著者自身のさまざまな恋愛、母との対立・母への反抗、摂食障害や自傷行為の経験に基づき、「あたしはあたし」「あなたはあなた」の自己肯定、子どもに対する全肯定とともに育児(や介護)はがさつ・ぐうたら・ずぼらを基調とした回答が中心となっています。
ダイエットをめぐって、「自分はなぜやせたいか」「やせたほうがきれいだから。やせたほうが服が似合うから。当然です。わたしだってそう思っています。でもその似合う服は、誰が考えた?世間が考えた。それが似合う女がかわいい、きれいだ、すてきだという考え方も、世間が作った。世間が作り上げた価値観にうまうまとのっかって、この自分を否定する。いいのか、自分?」(21ページ)という問いかけをし、大根足と言われて自分の脚と大根を比べて大根と同じ太さの脚ならそれは「細い脚」と呼ばれるべきだと認識し、「その後も『大根足』と言われるたびに、心の中で、『こいつら語彙が貧弱、あたしの脚は大根よりずっと太い』とせせら笑っておりました」(24ページ)と飄々と語り、しかしながら自分自身は摂食障害を経験し(50ページ~)さらに「わたしは、摂食障害になったこと、苦しんだことは、後悔していません。食べ物のことを考えるしかなかったあの日々は充実してました。苦しかったけど、もしかしたら、楽しかったのかもしれません。」(53ページ)と語れるあたり、懐の深さが感じられます。
「よくよく考えつめると、恋愛なんて、相手を思いのままに動かせるという自分の力を感じたいだけ。蹂躙したい、とまでは言いませんが、支配したい、にとても近い。どんな穏やかな恋人たちだって、しょせんは、あたしは強いから相手に力を及ぼしている、おれは強いから相手に力を及ぼしているという喜びが、『自分が好き』という感情のまわりをぐるぐるまわっているだけなんじゃないですか」(45ページ)という恋愛観。他のパートでも繰り返し語られていますので、確信を持っているのだと思いますが、そういうものでしょうか。著者自身、「性のこともからだのことも書いてきましたが、恋愛については五十近くなるまで書けなかったような気がします」というように、この項目を「つづく」で終わらせているように、簡単には悟れず総括できないのだろうと思います。
伊藤比呂美 岩波新書 2014年9月26日発行