患者が治る(少なくとも病院の外で生きることを可能にするのに十分な健康を取り戻す)見込みがない状況での延命措置について、第1段階として医師にはそれを行う義務がなく、第2段階として医師は控えることを促され、第3段階として医師は控えるよう義務づけられるべきと論じた本。
治療行為が個々の臓器や検査値レベルで改善の効果があっても、患者が生命維持装置につながれ集中治療室から出られないままでただ生存しているという状態以上に治せないのであれば(そして見込みがないとする基準としては、その治療行為がこれまでに100例行われてそれで退院ができるまでに治癒した例が無いのであれば見込みがないとすべきとして)、その治療行為は患者にとって無益であり、医師はそのような治療行為をする義務がなく、またすべきではないというのが著者の主張の基本です(というか、この本まるごと1冊それを手を変え品を変え論じているという感じです)。著者は、そのような場合は、無意味な医療行為によって患者に負担をかけ続けるのではなく、患者の苦痛を除去してより落ち着いた環境で死を迎えられるようにケアすべきであることを主張し、併せて著者としては多数派の医療施設が著者の見解に従うべきと考えるが、少数派の医療施設が宗教的信念等からあくまでも延命措置を続けるということには反対はせず、患者ないしはその家族の意向に応じて選択と医療施設間での紹介転院がなされればよいとしています。患者、家族側では、わずかでも可能性があるのならば(可能性が「ゼロ」でなければ)望みを託したいということはあるでしょうし、そういう観点から著者の主張に納得できない向きは多々あろうかとは思いますが、双方の方向性を持つ医療機関が併存して患者・家族の選択がなされるということであれば、実務的には受け入れやすいかなと思います。
患者が意思を表明できない状態になっているとき、患者が以前に延命措置を望まないという意向を示していた場合に、①果たしてその意思表示がどれだけの情報、どれだけの状況認識の下でなされたものか、言い換えれば正しい情報を得て熟慮してなされたものかという問題、②その意向が現在も変わっていないのか(人間、誰しも気が変わることはありますし、自分の命の問題ですから、理由や根拠があろうがなかろうがやはり大切なのは現在の意思ということになります)という問題は、法律家の立場からは避けて通ることができません。また家族の意向が示された場合に、それがどのような動機によるものか、患者の意向や苦痛除去を望むものか、費用負担の問題やさらには早期に相続したいということなのかなど、悩ましいケースも出てくるでしょう。著者の立場からは裁判所や弁護士の姿勢が批判されていますが、どうすることがその患者の利益になるのかは、結局個別のケースで判断せざるを得ないことになり、法律家の立場からは、裁判の場に出される限り、紹介されているようなことになるのもある程度致し方ないように思います。
1970年代と80年代では患者やその家族が延命措置の中止を希望したが医療施設がそれを拒否したという争いが多かったが、1990年代には患者か家族がやれることはすべてやってくれと言い医療施設が無益な治療の終了を求めるケースが増えてきたことが紹介されています(131ページ)。医療職だけが医療を受ける人々に対する無制限の義務を課せられることが適切か、例えば有罪判決や終身刑によって永久に収監された囚人が、考えを奇跡的に変えて寛大な処分を下すことを求めて弁護士が刑務所長に毎日電話するように要求できるだろうか、間違いなく弁護士はある時点でクライアントに職業上の義務に限界があることを表明するだろうと、論じられています(141~142ページ)。まぁ、そりゃあ、やれませんよね。毎日電話してくれは極端ですけど、無理な主張、法的に見て無理な場合や、事実関係について証拠の裏付けがないと言うより証拠から見て認定できそうにないことを言い張って、主張してくれ、有害でなければ主張してくれと言う依頼者は時々います。無理な主張をすると全体の信頼性が低く評価されたり、無意味に長い書面を読まされた裁判官が心証を害する恐れがあって、そういう主張は、ふつう、有害に思えますが、納得しない思い込みの強い依頼者もいて困ります。そういうのも、裁判官の内心の事情の予測なので「絶対か」と食い下がられると、絶対とは言えないという点でも、弁護士の場合も似たような状況はあります。そういうことを考えると、お医者さんの事情にも同情したくなるのですが…
原題:WRONG MEDICINE : Doctors, Patients, and Futile Treatment, second edition
ローレンス・J・シュナイダーマン、ナンシー・S・ジェッカー
監訳:林令奈、赤林朗
勁草書房 2021年5月20日発行 (原書は2011年、原書初版は1995年)
治療行為が個々の臓器や検査値レベルで改善の効果があっても、患者が生命維持装置につながれ集中治療室から出られないままでただ生存しているという状態以上に治せないのであれば(そして見込みがないとする基準としては、その治療行為がこれまでに100例行われてそれで退院ができるまでに治癒した例が無いのであれば見込みがないとすべきとして)、その治療行為は患者にとって無益であり、医師はそのような治療行為をする義務がなく、またすべきではないというのが著者の主張の基本です(というか、この本まるごと1冊それを手を変え品を変え論じているという感じです)。著者は、そのような場合は、無意味な医療行為によって患者に負担をかけ続けるのではなく、患者の苦痛を除去してより落ち着いた環境で死を迎えられるようにケアすべきであることを主張し、併せて著者としては多数派の医療施設が著者の見解に従うべきと考えるが、少数派の医療施設が宗教的信念等からあくまでも延命措置を続けるということには反対はせず、患者ないしはその家族の意向に応じて選択と医療施設間での紹介転院がなされればよいとしています。患者、家族側では、わずかでも可能性があるのならば(可能性が「ゼロ」でなければ)望みを託したいということはあるでしょうし、そういう観点から著者の主張に納得できない向きは多々あろうかとは思いますが、双方の方向性を持つ医療機関が併存して患者・家族の選択がなされるということであれば、実務的には受け入れやすいかなと思います。
患者が意思を表明できない状態になっているとき、患者が以前に延命措置を望まないという意向を示していた場合に、①果たしてその意思表示がどれだけの情報、どれだけの状況認識の下でなされたものか、言い換えれば正しい情報を得て熟慮してなされたものかという問題、②その意向が現在も変わっていないのか(人間、誰しも気が変わることはありますし、自分の命の問題ですから、理由や根拠があろうがなかろうがやはり大切なのは現在の意思ということになります)という問題は、法律家の立場からは避けて通ることができません。また家族の意向が示された場合に、それがどのような動機によるものか、患者の意向や苦痛除去を望むものか、費用負担の問題やさらには早期に相続したいということなのかなど、悩ましいケースも出てくるでしょう。著者の立場からは裁判所や弁護士の姿勢が批判されていますが、どうすることがその患者の利益になるのかは、結局個別のケースで判断せざるを得ないことになり、法律家の立場からは、裁判の場に出される限り、紹介されているようなことになるのもある程度致し方ないように思います。
1970年代と80年代では患者やその家族が延命措置の中止を希望したが医療施設がそれを拒否したという争いが多かったが、1990年代には患者か家族がやれることはすべてやってくれと言い医療施設が無益な治療の終了を求めるケースが増えてきたことが紹介されています(131ページ)。医療職だけが医療を受ける人々に対する無制限の義務を課せられることが適切か、例えば有罪判決や終身刑によって永久に収監された囚人が、考えを奇跡的に変えて寛大な処分を下すことを求めて弁護士が刑務所長に毎日電話するように要求できるだろうか、間違いなく弁護士はある時点でクライアントに職業上の義務に限界があることを表明するだろうと、論じられています(141~142ページ)。まぁ、そりゃあ、やれませんよね。毎日電話してくれは極端ですけど、無理な主張、法的に見て無理な場合や、事実関係について証拠の裏付けがないと言うより証拠から見て認定できそうにないことを言い張って、主張してくれ、有害でなければ主張してくれと言う依頼者は時々います。無理な主張をすると全体の信頼性が低く評価されたり、無意味に長い書面を読まされた裁判官が心証を害する恐れがあって、そういう主張は、ふつう、有害に思えますが、納得しない思い込みの強い依頼者もいて困ります。そういうのも、裁判官の内心の事情の予測なので「絶対か」と食い下がられると、絶対とは言えないという点でも、弁護士の場合も似たような状況はあります。そういうことを考えると、お医者さんの事情にも同情したくなるのですが…
原題:WRONG MEDICINE : Doctors, Patients, and Futile Treatment, second edition
ローレンス・J・シュナイダーマン、ナンシー・S・ジェッカー
監訳:林令奈、赤林朗
勁草書房 2021年5月20日発行 (原書は2011年、原書初版は1995年)