Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

気がつけば64歳

2015年08月05日 23時21分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 20代の頃には60代の自分など想定も出来なかったけれども、いつの間にか60代の半ばになっている。先ほどアップした鮎川信夫の齋藤茂吉に対する評価ではないが、果たして私は78歳という「大家」の到達点を「自然詠の果てに、自然そのものと化した」と断定できるほどになっているだろうか?

 現在も私は鮎川信夫の「たとえば霧や/あらゆる階段の跫音のなかから、/遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。/-これがすべての始まりである。/‥/「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」/Mよ、地下に眠るMよ!/君の胸の傷口は今でもまだ痛むか。」という、私の生まれた1951年に発表された鮎川信夫31歳の時の「死んだ男」などが掲載された同年発行の荒地詩集を読んだ時の衝撃をそのまま胸に抱いている。私がこの詩集を手にしたのは1972年、21歳になる直前であった。
 それから42年もの歳月が経ち、あの衝撃を受けたままこの歳になってしまった。私は「老い」について何を語ったら良いのだろうか。何も語るものがない、とオロオロするばかりである。

「老いの生きかた」(鶴見俊輔) 1

2015年08月05日 21時33分30秒 | 読書


 この本「老いの生きかた」(鶴見俊輔、ちくま文庫)の序にあたる「道の領域にむかって」で鶴見俊輔は「この本は、老いについての文章をあつめた。どのように老い、どのように終わるかは、人それぞれでちがうから、当然にこの本は老いについて相反した観察を含んでいる。置いてゆく模範例として一つの例を見たとしても、それにしたがって生きているうちにうらぎられることになるかもしれない」と記載しているとおり、18人の文章表現者の老いについての記述を集めている。いわば「死を間際にしたアンソロジー」ということになる。
 「資本主義成立期の欧米にも、日本にも、いたましい歴史がある。街角はみにくく、いやなにおいにみちていた。だが、今のテレビの広告は、つねに清潔である。清潔への期待が、妻から夫へとむけられるてさまざまな要求の形をとる時もあろう。妻からこどもへとその理想がうえつけられると、清潔信仰は純度をまして、汚いもの、みぐるしいものへの攻撃の力となることもある。先年横浜でおこった老年の浮浪者への、中学生あいかたらっての攻撃は、清潔をかたく信じる少年の理想主義の悲しい結末だった。こういうまなざしを、自分の家庭内で、妻子と孫たちからむけられると、私たち老人は、安心している場所を家の中でも持つことができなくなる。潔癖な人は、幸福になることはできないという、私の処世の智慧をもってきりかえしたい‥」
 あまり片意地張らない、いい文章だと思った。



 18人の文章、鶴見俊輔がどういう基準で選択したかはわからなかったが、これらの中では、「最晩期の齋藤茂吉」(鮎川信夫)、「小さくなる親」(串田孫一)、「巣箱」(野上弥栄子)の3人の文章に惹かれた。

 「最後の齋藤茂吉」(鮎川信夫)は鮎川伸夫の死についてのエッセーと云うよりも、最晩年の齋藤茂吉論という形式である。他の17人とは違い齋藤茂吉の最晩年の短歌を論じながら、正面から「老い」というものを取り上げている。66歳という若さで亡くなった鮎川信夫の「老い」に対するイメージが滲み出てきているともいえる。
 「『つきかげ』の茂吉は、自ら認めるとおり、作歌能力の衰弱は覆うべくもない。『赤光』や『白き山』で、自然と自我との混然たる一体化を果たし、近代短歌の象徴の絶巓を究めた大歌人も、六十代の半ばを過ぎ、身体のおとろえだけでなく、精神の集中力が弱まって、散漫な日常詠が多くなっている。‥どうしてもつまらぬ歌が多すぎる‥。だが、『つきかげ』がつまらぬ歌集かというと決してそうではない。少なくとも、予感、あるいは怖れとしてあった〈老い〉と、実際の老いとが、どう違うかを証しているだけでも、注目すべき歌集なのである。」
 「茂吉の最晩期の歌は、すべてが自然で、順運のまま生涯の収束にむかってながれていっているようにみえる。“いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも”強固な自我と個性による自然詠の果てに、自然そのものと化したのであり、とりもなおさずそれが茂吉の歌の本願だったのである。」

 この鮎川信夫の文章を読んで、私は鮎川自身が齋藤茂吉の「自然そのものと化した」最晩年に強く惹かれていたのかと、理解してみた。こんどそのことを含めて、このような視点で鮎川信夫の詩や評論を読みなおして見たいと思った。

北八甲田

2015年08月05日 12時37分08秒 | 山行・旅行・散策


 朝7時50分発の十和田湖行のJRバスに青森駅前で乗車、ロープウェイ駅前で下車。このロープウェイはすでに妻と2度訪れている。1度は酸ヶ湯温泉を訪れた時でこの時はこのロープウェイで上まで行って、田茂萢湿原を巡った。時間はタップリあったが、まだ大岳・赤倉岳には残雪があり、運動靴だったので登るのは辞めた。2度目は十和田湖と奥入瀬渓谷を探索した時で、この時はバスでここをとおって小休止をしたのを記憶している。
 今回は単独で訪れた。ロープウェイを下りるとガスで周囲はほとんど見えない。雨もぱらついていたので「さんちょうこうえん」駅舎内で、雨具を着こみ出発したのが9時40分過ぎ。記憶に残る田茂萢湿原の木道を軽快に歩いて登山道との分岐へ。さいわい雨は止み、湿原内は風もほとんど感じない。途中で合羽の上下ともに脱いでしまった。分岐からそのまま休むことなく、赤倉岳に向かう。

            

 稜線に出ると風が強く、この間日光白根山の最後の登りのような強風に襲われた。昨日の岩木山の頂上での風よりも数段激しかった。狭い稜線上で本来ならばかなり怖いが、登山道が整備され両側にロープが張られ道が明確である。時々ロープにつかまりながら風の中をひたすら歩いて、いつの間にか赤倉岳を過ぎて井戸岳に着いてしまった。ここから小屋までは多くの人が歩いていて、このような日は心強い。
 大岳下の避難小屋には1時間30分ほどで着いた。ここの避難小屋では多くの人が昼食休憩中。私も隅に座らせてもらって簡単な昼食を摂った。40分ほどして大岳に向かったが20分もしないで頂上にたどり着いた。頂上は広いが景色も望めず、風も強くユックリできないのが残念。5分ほどして酸ヶ湯方面に下山を開始した。
 下山路も整備されており道を見失うことはまずあり得ない。ところが下山を開始して10分ほどの階段状の道で、人の声につられて後ろを振り向こうとした途端に無様に転倒してしまった。その時の様子は昨日記載した。
 13時には八甲田清水、14時40分には酸ヶ湯温泉の駐車場にたどり着いた。昼食休憩と怪我で取られた時間、ゆっくり歩かざるを得なかったが、コースタイムより30分ほどの超過の5時間で降りてこられた。ちょうど20000歩歩いた。
 左腕の痛みはひどくなり、リュックの着脱はつらいものの、足には影響がないので、そのま猿倉温泉まで予定どおり歩くことにした。地図上で図ると6キロ位なので、100分で10000歩くらいと事前に計算していた。15時ちょうどに出発。
 途中約半分ほど来た傘松峠の道ばたで腰を下ろしたら蜂が4匹ほど周囲を飛び始めたので慌てて逃げ出し、さらに先の睡蓮沼の公衆便所前で10分ほど休憩。残念ながら睡蓮沼は見ないで来てしまった。便所の向こう側だったらしい。



 途中から高田大岳の大きな山容が見えた。これは登りたいと思った。たぶん30代の頃ならば思い切って、仙人岱から小岳、高田大岳を経て谷地温泉への道を選択したかもしれない。ただ道はササヤブと泥濘がひどい道らしい。
 反対側の南八甲田の展望はほとんどなく、睡蓮沼からちょっとだけ顔を出した山が、猿倉岳なのか、駒ヶ嶺なのかはっきりしなかった。

 猿倉温泉に着いたのは予定より5分ほど余分だったが、1時間45分かかり11000歩ほどで着いた。この日の総歩数は31000歩あまり。
 とても気持ちのいい宿で、温泉も格別、食事もとても良かった。