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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

雨をうまくかわしてウォーキング

2015年08月16日 23時37分31秒 | 山行・旅行・散策


 本日は横浜市歴史博物館からの帰途は、地下鉄で新羽駅で下車して、新横浜駅まで新田緑道などを歩いて新横浜駅に行き、そののちはいつものウォーキングコースを歩いて自宅まで歩いた。家を出てから、歴史博物館の展示を見て、家に戻った時点で1万8千歩あまり。
 新田緑道の終点を真っ直ぐに鶴見川にぶつかるまで歩いたのだが、鶴見川を渡る場所を間違え亀の子橋経由で日産スタジアム脇に出てから鳥山川を渡るまでが少々遠回りをしてしまった。 自宅まであと300mほどのところで、横浜市から豪雨情報メールがきた。読み終わった途端に大粒の雨が降り始め、慌てて家まで走った。もう少し遠かったらずぶぬれになるところであった。その後どんどん雨はひどくなり、一時は我が家のベランダから南側の号棟が見えにくくなるほどの雨であった。
 現在は東京都の三鷹市や調布市、中野区の方でかなりの雨が降っているようである。

 横浜ではさいわい22時前には雨が上がり、団地の周囲を約5千歩ほどウォーキングをした。結局本日は2万3千歩とすることができた。
 最近はあまりウォーキングで歩数がいかないので、さすがに足の筋肉が少しだるく感じる。

「横浜のあゆみ」展

2015年08月16日 21時20分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 本日は横浜市歴史博物館に出向いて、横浜市ふるさと歴史財団8施設連携展示「横浜のあゆみ-ヒト・モノ・マチ」展を見てきた。
 8施設とは横浜市歴史博物館企画展、横浜ユーラシア文化館、横浜市三殿台考古館、埋蔵文化財センター、横浜市八聖殿郷土資料館、横浜市史資料室、横浜開港資料館、横浜都市発展記念館をさす。このうち有料館(歴史博物館・開港資料館・都市発展記念館)の3館共通券が200円である。
 3万年前のものと推定されている横浜出土の最古の旧石器時代の石器にはじまり、縄文早期から弥生時代の土器・石器等を経て明治開港時の地図などの資料などが所狭しと展示されている。
 縄文土器、鎌倉時代から江戸末期までの絵地図などに大変興味を覚えて長時間見入っていた。9月23日までの間にこのすべての施設をまわることは困難であるが、いくつかは見て回りたいものである。特に三殿台、開港資料館には行ってみたいと思っている。

   

「うらめしや~、冥途のみやげ展」感想

2015年08月16日 12時56分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 この展覧会は次のように紹介されている。

 東京・谷中の全生庵には怪談を得意とした明治の噺家三遊亭圓朝(1839-1900)ゆかりの幽霊画50幅が所蔵されている。この圓朝コレクションを中心として、日本美術史における「うらみ」の表現をたどる。
 幽霊は妖怪と違い、もともと人間でありながら成仏できずに現世に現れるという特徴がある。この展覧会では幽霊画に見られる「怨念」や「心残り」といった人間の底知れぬ感情に注目し、さらに錦絵や近代日本画、能面などに「うらみ」の表現を探る。
 円山応挙、長沢蘆雪、曾我蕭白、浮世絵の歌川国芳、葛飾北斎、近代の河鍋暁斎、月岡芳年、上村松園など、美術史に名をはせた画家たちの「うらみ」の競演、まさにそれは「冥途の土産」となる。
第1章 圓朝と怪談
第2章 圓朝コレクション
 怪談噺で名人といわれた圓朝は、幽霊画のコレクターでもあった。生前、約100幅の幽霊画を蒐集、所蔵していたと伝えられ、ゆかりの50点が菩提寺の全生庵に残されている。伝円山応挙、柴田是真、河鍋暁斎、伊藤晴雨、鰭崎英朋らの幽霊画の作品の数々を紹介。
第3章 錦絵による〈うらみ〉の系譜
 江戸から明治の錦絵に表された「うらみ」の系譜をたどる。歌舞伎では「東海道四谷怪談」(1825年初演)などをはじめ多くの怪談物があり、それらが芝居絵として描かれた。あるいは、歴史や物語のなかから、怨みを持って死んでいった人間たちが亡霊や生き霊あるいは鬼となって姿を現す場面が数々描かれた。浮世絵版画特有の手法による「うらみ」の表現を紹介。
第4章 〈うらみ〉が美に変わるとき
 長い黒髪、白装束、足下が描かれない女性の幽霊は円山応挙をもって嚆矢とされる。その後、多くの絵師たちによって、さまざまな幽霊の姿が描かれてきた。日本絵画史から「怒り」「嫉妬」「怨念」といった負の感情表現を描いた名作を集めた。近代になると、幽霊画は美人画と見まごうばかりに洗練された表現へと向かう。「うらみ」が「美」に変わる様相を紹介。また、能楽にも注目し、般若などの能面に日本人が負の感情表現に見出した美意識をさぐる。

 第2章のコレクション展を見てまずはおどろおどろしく描かれたお化けに度肝を抜かされる。あの奇怪な造形には現代の私たちはちょっとひいてしまう。いくら人間の顔を奇怪に造形してもそれは限界があると思わざるを得ない。
 伝円山応挙の「幽霊図」が幽霊図として出色なのは、奇怪な容貌をこれでもかと追及するのとは対照的に、ごく当たり前の人間の容貌により「幽霊」として造形したことにあるのではないか、と感じた。
 能面が現世に「うらみ」を残したり、遂げられなかった「無念」を引きずった死者の思いを「怨霊」として造形したものであるが、それは奇怪な造形ではなく、ぐっと思いを秘めた表情として造形されている。そして地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった仏教的世界観に基づく造形とみられる。
 これが江戸時代後期の19世紀となると血みどろで、正視に耐えない奇怪な姿にとことん純化していってしまう。「あの世」と「この世」の境で浮遊する魂魄としておどろおどろしく造形される。この必然性が現代に生きる私にはどうしても理解できない側面である。明治時代も後半になるとこの奇怪化の方向とは明らかに違う方向で造形されるようになり、丸山応挙の幽霊のようにごくありふれた女性像、あるいは美人画のような幽霊に大きく変わっていく。この変化を見ていくことが私には「救い」である。
 しかし「救い」とはいっても描かれた幽霊の「うらみ」が薄れていくのとは違う。かえって背筋が寒くなるほど深い「怨念」を感じる。

最初の作品が、歌川国芳「朝倉当吾亡霊」(1851)



次が伝丸山応挙の「幽霊図」




三番目が鰭崎英明の「蚊帳の前の幽霊」(1906(M39))