この展覧会は次のように紹介されている。
東京・谷中の全生庵には怪談を得意とした明治の噺家三遊亭圓朝(1839-1900)ゆかりの幽霊画50幅が所蔵されている。この圓朝コレクションを中心として、日本美術史における「うらみ」の表現をたどる。
幽霊は妖怪と違い、もともと人間でありながら成仏できずに現世に現れるという特徴がある。この展覧会では幽霊画に見られる「怨念」や「心残り」といった人間の底知れぬ感情に注目し、さらに錦絵や近代日本画、能面などに「うらみ」の表現を探る。
円山応挙、長沢蘆雪、曾我蕭白、浮世絵の歌川国芳、葛飾北斎、近代の河鍋暁斎、月岡芳年、上村松園など、美術史に名をはせた画家たちの「うらみ」の競演、まさにそれは「冥途の土産」となる。
第1章 圓朝と怪談
第2章 圓朝コレクション
怪談噺で名人といわれた圓朝は、幽霊画のコレクターでもあった。生前、約100幅の幽霊画を蒐集、所蔵していたと伝えられ、ゆかりの50点が菩提寺の全生庵に残されている。伝円山応挙、柴田是真、河鍋暁斎、伊藤晴雨、鰭崎英朋らの幽霊画の作品の数々を紹介。
第3章 錦絵による〈うらみ〉の系譜
江戸から明治の錦絵に表された「うらみ」の系譜をたどる。歌舞伎では「東海道四谷怪談」(1825年初演)などをはじめ多くの怪談物があり、それらが芝居絵として描かれた。あるいは、歴史や物語のなかから、怨みを持って死んでいった人間たちが亡霊や生き霊あるいは鬼となって姿を現す場面が数々描かれた。浮世絵版画特有の手法による「うらみ」の表現を紹介。
第4章 〈うらみ〉が美に変わるとき
長い黒髪、白装束、足下が描かれない女性の幽霊は円山応挙をもって嚆矢とされる。その後、多くの絵師たちによって、さまざまな幽霊の姿が描かれてきた。日本絵画史から「怒り」「嫉妬」「怨念」といった負の感情表現を描いた名作を集めた。近代になると、幽霊画は美人画と見まごうばかりに洗練された表現へと向かう。「うらみ」が「美」に変わる様相を紹介。また、能楽にも注目し、般若などの能面に日本人が負の感情表現に見出した美意識をさぐる。
第2章のコレクション展を見てまずはおどろおどろしく描かれたお化けに度肝を抜かされる。あの奇怪な造形には現代の私たちはちょっとひいてしまう。いくら人間の顔を奇怪に造形してもそれは限界があると思わざるを得ない。
伝円山応挙の「幽霊図」が幽霊図として出色なのは、奇怪な容貌をこれでもかと追及するのとは対照的に、ごく当たり前の人間の容貌により「幽霊」として造形したことにあるのではないか、と感じた。
能面が現世に「うらみ」を残したり、遂げられなかった「無念」を引きずった死者の思いを「怨霊」として造形したものであるが、それは奇怪な造形ではなく、ぐっと思いを秘めた表情として造形されている。そして地獄・餓鬼・畜生・阿修羅といった仏教的世界観に基づく造形とみられる。
これが江戸時代後期の19世紀となると血みどろで、正視に耐えない奇怪な姿にとことん純化していってしまう。「あの世」と「この世」の境で浮遊する魂魄としておどろおどろしく造形される。この必然性が現代に生きる私にはどうしても理解できない側面である。明治時代も後半になるとこの奇怪化の方向とは明らかに違う方向で造形されるようになり、丸山応挙の幽霊のようにごくありふれた女性像、あるいは美人画のような幽霊に大きく変わっていく。この変化を見ていくことが私には「救い」である。
しかし「救い」とはいっても描かれた幽霊の「うらみ」が薄れていくのとは違う。かえって背筋が寒くなるほど深い「怨念」を感じる。
最初の作品が、歌川国芳「朝倉当吾亡霊」(1851)
次が伝丸山応挙の「幽霊図」
三番目が鰭崎英明の「蚊帳の前の幽霊」(1906(M39))