

「思い出袋」(岩波新書)は、岩波書店の月刊雑誌「図書」に2003年1月から2009年12月まで連載されたエッセイ集である。
1.「1945年日本占領の時に海軍軍医として日本に来た同級生、リーバーマンは、米国はこれから全体主義になるだろうということだった。‥しかし2001年9月11日の同時多発テロのあとに米国大統領ブッシュが、「私たちは十字軍だ」という演説をしたとき、リーバーマンの予測が60年たって当たったことを感じた。‥(日本も)少しずつもとの軍国に近づいている今、時代にあらがって、ゆっくり歩くこと、ゆっくり食べることが、現代批判を確実に準備する。」
2.「定義をおぼえて、その定義にすっぽりはまる実例をひく。これは、学問を開拓するには、それは適切な方法ではない。出会った実例が、はめこもうとしても定義の枠をあふれるとき、手応えを感じるのが、学問をになう態度として適切だ。はみだす実例に偶然に出会うときもあるし、はみだす実例をさがすように心がけもときもある。」
3.「日本の大学は、日本の国家が出来てから国家がつくったもので、国家が決めたことを正当化する傾向を共有し、‥世界の知識人は日本と同じ性格をもつ、と信じている。しかしそうではない。(アメリカも)イラク戦争以降あやしくなり、日本に近くなってきたが、これから百年、アメリカの大学が日本の大学に近づく続けるという予測に、アメリカ育ちの私は賭けたくはない。」
4.「国家主権のあるかぎり、強大な軍事力をもっていながらそれを使わないでいることはむずかしい。250年前には小さな民兵組織しか持たなかった米国は、自分の持つ今や世界最大の軍事力に内部から抵抗するには、よほど精神力をもたなくてはならないが、それはもはやない。日米開戦後の1942年、戦時捕虜収容所内にいた私に卒業証書くれたこの国の寛大さは、その後半世紀と続くことはなかった。私と米国との関係は、その後まったく断続的になった。」
5.「友人をどう定義するか。私は、その人に対する敬意をもっていることが第一の条件と思うが、それに加えて、その人と雑談することがもうひとつの条件としてあると思う。」
6.「1917年、米国が世界戦争に踏み込んだとき、(ヘミングウェイ「武器よさらば」等)アメリカ文学にこれまでなかった世界をもたらした。それらと肩を並べる作品は、第二次世界大戦後の米国にはない。世界をひっぱる主役となった米国には、ひっぱられる世界の側から世界を見る力を身につけることができない。」
6か所も引用してしまった。このうち2、4、6については1960年代から70年代前半に既視感、気障く感がある。当時それらを私がどういう書籍、雑誌で読んだがまったく記憶にない。しかしこの本を読みながら、この既視感・既読感が頭を離れなかった。アメリカへの反発が強かった世相もあり、当時の学生には当然のようなものの見方として流通していたように感じるのは私だけだろうか。
特に4の指摘は是非とも今のこの時期に日本の政権担当者に届けたい言葉である。
1、3は9.11、イラク戦争という時代におけるアメリカ論としてやはり新聞等で指摘されていた議論である。鶴見俊輔を当時読んだことはなかったが、いつの間に私の耳に届いていたのであろう。
5は、私がこれから大事にしていかなければならない指摘である。
これらの引用をみるかぎり、その時代時代にいつの間にか鶴見俊輔の言が私に届いていたことになる。私は鶴見俊輔の影響を受けていた、ということをあらためて実感した。