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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

セザール・フランク「ヴァイオリンソナタ」

2015年08月25日 23時48分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 フランクの曲は昨日取り上げた交響曲と交響的変奏曲、そしてこのヴァイオリンソナタの3曲しか持っていない。
 この3人の作曲家のヴァイオリンソナタをおさめたCDは、いつ購入したか、そして聴いたことがあるのか、記憶がない。購入したからには1回は聴いていると思うが、どんな感じの曲だったか記憶にない。
 セザール・フランク(1822-1890)、クロード・ドビュッシー(1862-1918)、モーリス・ラヴェル(1875-1937)というフランスで活躍した年代の違う作曲家のヴァイオリンソナタである。3人とも私は普段は聴くことが稀な作曲家である。ちょっと苦手である。たぶん購入したのはいろいろな作曲家のヴァイオリンソナタを聴いてみたい時期があったから、その時だと思う。CDの記載によると2006年頃だから9年前ということになるだろうか。
 本日はフランクのヴァイオリンソナタだけを聴くつもりで棚から出してきた。

 ところが聴いているうちにヴァイオリンの音色の美しさを充分引き出している曲だと感じた。出だしからメロディーは覚えていないのだが、終楽章の第4楽章になってどこかで聴いたような主題がながながと繰り返されるのに驚いた。結局誰かの曲に出てくる旋律を持ってきたのかといろいろ思い浮かべたがわからない。しかし随分親しみやすい旋律である。CDの解説やWikiでもわからない。気になって眠れなくなってしまいそうである。
 循環形式といわれるだけのことはあり、この第4楽章で繰り返される旋律は確かに第1楽章でも顔を出していることが2回目でようやくわかった。聴いたことがあるという思いは、最初から聴いているうちに自然と頭の中に植え付けられていたということなのだろうか。

 これはもっとじっくりと聴かなくてはいけなかった曲だったかもしれない。

   

涼しかった一日

2015年08月25日 21時47分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 8月にしてはこのような涼しい日は珍しいのではないか。本日は23℃というこの涼しい気温の中、上野の東京都美術館まで出かけた。自宅から横浜駅までは降りそうで降らなかったが、上野についてみると微かに雨が降っていた。上野駅から美術館までは傘をさすほどではなかったが、帰りに美術館を出たらそれなりに降っていた。自動販売機の横の椅子に座ってお茶を飲んでいたら、傘をささないで歩いている人も見え始めたので、傘はリュックに挿したまま再び上野駅までそのまま歩いた。
 2時間も展覧会場にいたためにさすがに疲れた。上野駅で生ビールを1杯飲んで電車に乗ったら、すっかり気持ちよくなり、あやうく横浜駅で乗り過ごすところであった。

 明日に「伝説の洋画家たち」展のその2を仕上げる予定にはしている。

「伝説の洋画家たち-二科100年展-」(東京都美術館) その1

2015年08月25日 21時13分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 二科会が結成されて100年を記念した展覧会「伝説の洋画家たち-二科100年展-」が東京都美術館で開催されている。
 二科会と云われてすぐに会の歴史や関係した画家の名が出てくるほど日本の絵画の歴史に詳しくはない。それでも二科会という名は幾度も耳にしている。折角だからそこらへんの勉強も兼ねて展覧会に足を運んだ。
 二科会の歴史年表などを丁寧に見ながらゆっくりと2時間少しかけて会場を回った。
 むろん目当てはある。坂本繁二郎の「海岸の牛」「放牧三馬」「帽子を持てる女」、佐伯祐三「リュ・ブランシオン」「新聞屋」、松本俊介「画家の像」。これだけでも1500円を払う価値はあると思って出かけた。
 会場は空いている。夏休みだから混んでいるかなと心配もしていたが、人気はないのだろうかと少々心配になった。雨が降りだしそうな天気だったこともあるのだろうか。
 私の目当ての作品以外にも私なりに気になった作品もいくつかあった。それを大きな収穫としようと思った。

      

 まずは会場に入ってすぐに目に入ったのが、坂本繁二郎の「海岸の牛」(1914)。もうここですっかり足は止まった。1970年3月の追悼展、2006年の坂本繁二郎展、2013年の「夏目漱石美術世界」展以来4回目の対面である。強い夏の陽射しを受けた海岸とそこに立つ牛、私が強い陽射しのもとで何かを見るとこのように見える。明確な輪郭が溶け出て周囲を合体するように境界があいまいとなる。そんな私の目に映る風景そのものである。高校3年の卒業間際の私が美術作品を見ることの楽しさを実感した作品である。
 他の作品を飛ばして同じ坂本繁二郎の「帽子を持てる女」(1923)、「放牧三馬」(1932)の3点の間をうろうろした。とくに「海岸の牛」「放牧三馬」は飽きることはない。「胞子を持てる女」と「放牧三馬」は3度目の対面となる。
 「放牧三馬」に描かれた3頭の馬の内、真ん中の馬は眼が青い。他の2頭は眼が描かれていない。構図としては空に浮かぶ3本の雲と地上の水溜りが平行、馬の脚と首が雲と水たまりに直行するように描かれ、横に伸びるリズムが心地よい。遺影のような3頭の馬を思い出しながら描く視線が印象的である。この馬は何の象徴だろうか。
 私が坂本繁二郎の絵に惹かれるのは、タッチが終生同じようなのだが、対象が馬、牛、能面とかわりつつ飽きることがないことだ。手馴れて同じような描き方を続けたという姿勢は感じない。どの牛にも、馬にも、能面にもどこかに作者が牛・馬・能面の向こうに佇んでいる。どれもが同じ表情をしているわけではない。牛も馬も静止しているポーズだが、静かで微かであるものの動きがある。
 この2点の牛、馬に比べて胞子を持つ女は完全に動きを封じられている。そして画家の面影が女性像の向こう側に見えるだろうか。背景の色に溶けてしまいそうな人物である。牛や馬の絵とどう違うのか、私には今のところそれがわからない。ヨーロッパでの体験が坂本繁二郎という画家の画業にどのような影響を与えたのか、もう一度勉強しなくてはいけないと思う。