Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

日本国憲法第9条拡大のための次の一歩(小沼通二)

2015年08月17日 23時47分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 世界平和アピール7人委員会(World Peace 7)のホームページに「今月の言葉#15『日本国憲法第9条拡大のための次の一歩』」【http://worldpeace7.jp/?p=781】が掲載された。
 耳を傾けるべきものと思う。

★日本国憲法第9条拡大のための次の一歩(小沼通二)

 今年は、核兵器と戦争の廃絶が人類の存続のために不可欠だと呼びかけた1955年のラッセル・アインシュタイン宣言(RE宣言)から60周年にあたる。湯川秀樹も含むノーベル賞受賞者たち11人の科学者によるこの宣言は、第五福竜丸などが被災したビキニ水爆実験の実態を直視したB.ラッセルが中心となって訴えたものだった。これを受けて1957年に始まったパグウォッシュ会議は、1995年のノーベル平和賞の受賞を経て、今年の11月初めに長崎で第61回大会を開催する。
 核兵器廃絶は未だ実現していないが、1959年の南極条約での軍事措置禁止から始まって、1967年からは各地域に非核兵器地帯が次々に設定され、2000年にはモンゴル1国を核兵器のない状態に保つことを国内法と国連が確認し、核兵器国がこれらを尊重することを約束するに至った。南極ではかねてから領有権の宣言もあり、領有権主張範囲の重なりもあったのだが、条約有効期間中凍結し、新たな主張は禁止されることになった。
 戦争否定の約束は、RE宣言以前からあった。第1次世界大戦終結の2年後の1920年に発足した国際連盟(以下連盟と略)では「締約国は戦争に訴えない義務を受諾」して、紛争の平和的解決、そのための手続などを定めた。1928年には、日本も参加してパリ不戦条約が成立し、翌年に発効した。
 残念なことにこれらは、自衛権の拡大解釈によって戦争を防ぐことに成功せず、第2次世界大戦後に発足した国連も、安全保障理事会が、常任理事国自体の紛争参加や拒否権によって数多くの国際武力紛争を未然に防止できず、期待される機能を果たしていない。しかし国連の前文と第2条を見れば、原則は武力を用いないことである。国連憲章の第7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」には、13条に亘って定めがある。集団的自衛権は、この章の最後に安全保障理事会が必要な措置を取るまでの期間の権利として、出て来るに過ぎない。
 こう見てくれば、日本国憲法が国の交戦権を認めないのは、国連憲章などの原則に完全に沿うものであり、70年間世界に敵を作らずに来たことは、他国にも広げていくべきものである。これを捨てて一部の国に協力して、敵を作り、軍備を拡充して、武力行使を積極的に行おうというのは、時代の逆行なのである。非核兵器地帯はすでに実現し、広がってきたのだから、武力行使を否定する非戦争地帯を設定し、これを国連が認め、これらの国では軍隊を警察に改編していくことを目指すことは夢でなく、向かうべき現実である。そのための努力は国家だけに任せるのでなく、対人地雷やクラスター弾の禁止条約の成立にNGOと一部の国のイニシアティブが決定的役割を果たした前例に従って、世界のNGOと手を携えて一歩一歩進めていくことを考えていきたい。



 

チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」

2015年08月17日 21時17分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日NHKでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をやっていた。ピアノ独奏は小山 実稚恵、指揮は尾高忠明、NHK交響楽団であった。なかなかいい演奏だったと思えると同時に個性的な演奏のように聴こえた。何処がどうというのはとても言えないのだが、私の第一印象はちょっと武骨で、あまりなめらかではないということであった。
 これは否定的に言っているのではない。CDで発売される演奏はどれもが滑らかで、激しい箇所も静かな部分も差がない。それこそ力強く盛り上がるところは泥臭く武骨にギスギスしていてもいいのではないか、と思う個所が何か所もあるのが、このチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番だと私は思っている。
 強く演奏するところも、ソリストの技術によってひとつひとつの音が滑らかに次の音に移っていくのが、現在はいい演奏と云われている。しかし滑らかさを犠牲にしても力強さ、鍵盤へのタッチの強さを身上とする演奏が私には好みである。小山実稚恵の演奏を聴いていて私は好意的な思いで、武骨だ、と思った次第である。演奏家に対して、ことに女性の演奏家にはあまりいい表現ではないと思うが、実に力強い演奏に聞こえた。
 小山実稚恵というピアノ演奏家の存在にあらためて注目したい。

   

 さて私のもっているチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、ロジェストベンスキー指揮、ウィーン交響楽団とピアノがヴィクトリア・ポストニコワという取り合わせである。録音は1982年。指揮者とピアノ独奏が夫婦という取り合わせも話題を呼んだ。また強弱など作曲者の指示とは違うところもあるなどと云われた演奏であるが、私はそんな挑戦的なところを聞いてみたいと思い購入したことをおぼえている。実際にどこが作曲家の指示と違うのか、スコアを追ったことはないのが情けない。
 学生の頃からもう何回もこの曲は聴いてきた。あやふやな記憶では、このスコアも当時の手垢にまみれていた。もっとも就職してからスコアを見ながらCD聴くことは無くなった。子ども部屋を作らなくてはいけなくなって私の持っているスコアは全部が天袋の奥にしまわれてしまった。それ以来日の目を見ていない。天袋にしまうときにどのスコアがどの程度汚れているか、といった印象が残っているだけである。その印象ももう怪しげな記憶でしかない。
 このCDの演奏も耳にはとても心地よい。余裕をもって少し遅めの演奏だと思う。私の得た印象について自信はないが、小山実稚恵の昨日放映された演奏とは違う指向のような気がしている。
 こんな感想を記したら、演奏家の方に怒られることはもとより承知をしている。違っていたらゴメンナサイである。


竜巻が発生か?

2015年08月17日 18時17分36秒 | 天気と自然災害
 本日の気象状況は神奈川県ではとても過酷であったようだ。横浜駅周辺は特に何事も過ぎたようだが、横浜に西部で隣接する藤沢市、そして泉区や旭区・都筑区で被害が出たようだ。また青葉区では竜巻らしき画像がNHKのニュースで放映されていた。
 横浜駅西口や私の家の周囲では何事もなく、一時雨が降った程度であった。局地的にひどい状況であったらしい。
藤沢での作業員の被害というのが報道されているが、飛んできた看板用のものが足に突き刺さったらしい。意識があるもののかなりの重症のようである。
 この報道を聞いて私が最初に思い浮かべたのが、擁壁やブロック塀、家屋に張り付けられているサラ金などのトタンやプラスチック製の貼り付け看板。素材や固定用のビスなどが腐食したり劣化したものがそのまま放置されている。設置者、そしてそれを貼り続けている施設管理者の責任は重大である。私は刑事責任を問うべきであると思っている。
 私も現役時代には、台風などの気象災害で風で飛んでくるこれらの違法看板にとても怖い思いを幾度も体験した。ある年の台風時に、歩道橋の上で区役所が貼りだした啓発用の横断幕が風にあおられてはずれそうなものを仲間と撤去していた時に、どこから飛んできたのが、サラ金業者のトタンの看板が飛んできて、歩道橋の上を風にあおられて舞った時の恐怖は今でも忘れられない。雨具とヘルメットを装着していたが、あれが首筋に当たったら生きていられないと足が震えたのを今でも覚えている。すくなくとも私の後輩にあたる現役の仲間に、こんな怖い思いをさせたくない。
 災害時に出動する施設管理者や消防隊員や地域のボランティアの人々を危険にさらすこれらの違法看板は是非とも早急に一掃してもらいたいものである。
 公共施設に貼られているものは、私(たち)は一生懸命取り払ったが、一部の頓珍漢な管理職は「所有権が‥」と馬鹿なことを言って、いつも逃げ腰に対応していた。みんなでそんな意見は無視をして「安全確保」に努力をしたが‥。半年以上は廃材置き場に保管したが取りに来るくることはまったくなかった。それでも民地や民家等民間の所有者の施設に貼られたものには手が出せなかった。

 
 竜巻注意報はまだ解除にならない。

【追記】
 後の報道で藤沢で働いていた作業員の足に刺さったのはベニヤ板らしいということであった。

横浜では大雨・洪水警報も発令されていた

2015年08月17日 10時54分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝の6時30分ころに雨の音で眼が覚めた。暫くして大雨・洪水警報、雷・強風注意報が出ている旨のメールが着信した。風は強くはなかったが雨はかなり強く、そして長時間続いた。都内でも昨晩に続いてかなり強く降ったようである。
 10時30分には、警報は解除となり、大雨・洪水・雷・強風注意報に変わっている。実際は雨はあがり、風もなく、空は明るくなってきた。雨が上がった途端に蝉もいっせいに泣き始め、今はとても賑やかである。
本日は雨の予想が出ていたので、特に予定はたてていない。読書と多少の作業を午前中に済ませ、天候によっては午後から横浜駅まで歩いてみようかと考えている程度である。
 夏休みの追い込みで、昨日の横浜歴史博物館も親子連れで賑わっていた。しかし普段連れてくることもない博物館に急に子どもを連れてきて、宿題として勉強させようとしても子どもは戸惑うばかりでかわいそうである。
 展示物をどう見てもいいかわからず、何かを考えるきっかけになるわけでもない。普段から親もともに勉強するつもりでじっくりと見て回る習慣をつけてあげなければ、考える力はつかない。夏休みの宿題、苦痛が増すばかり、ますます勉強が嫌になるだろう。
 かといって自分が子どもにちゃんとしてやれたかどうかは、自信はない。

 暑さは和らいでいるが、それでも暑いことに変わりはない。今年の冬を思い出してみた。