
昨日国会前庭和式庭園で蝉の抜け殻を見つけた。空蝉、国会内の議論というなの空疎な日本語の応酬をそのまま見ているような思いであった。
日本を取り戻すという人の言葉がもっとも空疎である。見え透いたはぐらかしの答弁は、情緒的にただただ空中に浮遊している。蝉の抜け殻の方が幹をしっかりとつかんで、確固として存在している。蝉に対して失礼だったろうか。
日本を取り戻すと言っている人には是非とも、日本の古典と言われる文学や、そこまで言わずとも明治以降の文学に親しんでもらいたいと思う。言葉の持つ力を身をもって示してもらいたいといつも思う。あるいは戦後の文学がたどった言葉の重みを味わってもらいたい。
日本の言葉をもっとも悪い実例として垂れ流しているのが、今の国会の場というのがとてつもない背理ではないか。
もう一方で、空疎な答弁に対して堂々巡りの応答をする側は、またそれらの政治的言語を伝えられる側が、果たして同じ轍を踏むことはないか。空疎な敵に対して発する言葉が、空疎で実体のない、最初に発せられた空疎な言葉を否定するために、強い打撃だけを目的とした言葉へと純化する悪循環に陥らないか。
戦後の日本の反体制派の空疎で攻撃的な言葉は、そのようにして作られた。同じ轍を踏まないか、極めて危うい段階に来ていないか。私は強く危惧している。