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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「ピアノソナタ第3番」

2016年08月27日 11時47分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日記載した「木々との対話展」に補足を書き加えて更新。昨晩は眠くて少々あわてて作成したので舌足らずなところがあった。朝目が覚めてふと書き加える点を思いついた。

 本日は空が篤い雲に覆われ朝から一雨があった。私の住む団地では路面のアスファルトが濡れる程度であったが、同じ区内でも海沿いは強い雨もあったらしい。とても暗い。部屋に電気を点けなければ新聞も読めない。気温は8時半の段階で28℃と気象庁のデータに載っているが、実際はもっと涼しく感じる。一気に秋が深まったような気分になった。




 この気分を受けて、ブラームスのピアノソナタ第3番(作品5)を聴いている。この曲は1853年、ブラームスが20歳の時の作品。ブラームス最後のピアノソナタというと晩年の作品に聞こえるが、ごく初期の作品である。
 全5楽章という構成で34分近い演奏時間の大作である。若いフラームスの抒情的でロマン溢れた曲。旋律や伴奏の音型が明瞭で、メリハリがある。とても親しみやすい曲でもある。聞きようによってはブラームス特有の甘い情感が受け付けない時もあるが、甘さに流されることのない構成的な伴奏に着目すると、飽きることはないと思う。
 第2楽章にはシュテルナウという詩人の詩が記されている。第3楽章の燃え立つような情感を中心に前後にある第2、第4楽章が印象的である。
 いつものとおり、ペーター・レーゼルのピアノ独奏による1972年録音版を聴いている。同時に収録されている曲は、「シューマンの主題による変奏曲作品9」と「四つのバラード集作品10」。作品9は投身自殺を試みたシューマンに敬意を表した曲であり、入院中のシューマンとクララの絶賛がある。
 「四つのバラード」については明日聴くことにしたい。

台風10号の現在

2016年08月27日 01時25分33秒 | 天気と自然災害


 台風10号はこのような進路を取るらしい。少しずつ予報が遅くなっており、本州上陸予想個所も少しずつ北に移動しいる。そして27日0時の段階で、強い台風、東北東に時速10キロで進み、中心気圧は950ヘクトパスカル、最大風速40m、暴風域が90キロとなっている。
 それが29日21時の段階では、北東に時速25キロで進み、中心気圧は945ヘクトパスカル、最大風速40m、暴風域は560キロに発達する。暴風域が6倍以上に広がる予報である。
 

「木々との対話」(東京都美術館)

2016年08月26日 23時00分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日東京都美術館で「木々との対話-再生をめぐる5つの風景」展を見てきた。「ポンビドゥーセンター傑作選展」の半券を持っていると800円が500円になるというので、さっそくその得点を使って見学してきた。
 国安孝昌、須田悦弘、田窪恭治、土屋仁応、船越桂の5人の作家の作品が地下3階から地下2階と地下3階、屋外、ラウンジ、美術情報室などに分散展示されている。
 中でも私は田窪恭治と國安孝昌の2名の作家の作品にとても惹かれた。
 普段はインスタレーションというものに惹かれることが少ないが、この二人の造形が心に波を建てることなく、すっと胸にすべるこむように入って来た。抵抗がない、という感覚に襲われた。

   

 田窪恭治は廃材・金箔・鉄などを組み合わせて、どこか観音像を思わせるような作品が最初に目についた。円空仏を見ているようでもある。
 素材をそのまま置いた表現というものもあるが、形には特にこだわりは感じないが、丁寧で強い造形意識には好感が持てた。

   

 國安孝昌は杉丸太と陶製の小さなブロックを組み立てて、とてつもなく強大な意志を感じるものを作り上げた。少しだの素材の位置変更でも全体が崩壊してしまうような感覚に襲われる。作品は巨大なカタツムリにも見え、柄のついた巨大ぺろぺろキャンディーにも見えた。
 小さな陶製の細長い無数のブロックを複雑に組み合わせ、その間に直径10cm×1mほどの杉丸太を何本も組み込んで構築している。むろん杉丸太はしっかりと紐で互いに縛り付けられてはいるが、一見小さなブロック1片のどれかひとつを動かしたり、取り除くと全体が崩れてしまいそうにも見える。そんな微妙なバランスの上に巨体な形が出来上がっている(と思わせる)。この作り上げる労力・執念の源泉は何なのか、私にはわからないという実感と共に、それと相反して不思議と親近感を感じる。この親近感が他の巨大なインスタレーションから受ける印象とは違うと感じた。それは木と陶製ブロックの肌合いによるものか、出来上がった渦状にうねる曲線によるものなのか、判らなかった。そういう思いをさせるところがこの作品の魅力・価値なのかもしれない。
 私は作品が巨大になればなるほど、巨大化の根拠がますますわかりづらくなる。
 他に動物・想像上の動物の木彫にこだわる土屋仁応、女性の半身像を繰り返す船越桂、バラなどをそっと置く須田悦弘など、どの作家も「木」にこだわる雰囲気は伝わってきた。とても良質なインスタレーションと作品群を見ることができたと思う。

         

退職者会の会報の原稿がとりあえず出来上がった

2016年08月26日 21時00分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ようやく退職者会の会報の第一稿が出来上がって、印刷所に送信した。これから再度印刷所で入力の上、週明けにも校正刷りを送ってもらうことになる。それをもとに編集委員で点検の上、来週中に原稿の確定となる。印刷に入るのは再来週。
 原稿が少なく心配したが。どうやら95%は埋めった。夏はどうしても記事が少なくなる。
 例年9月中旬に行われていた「高齢者集会」は今年は9月下旬になった。会場の日比谷公会堂の工事にともなう措置。来年は例年通りに開催される予定である。9月22日には反原発での集会も予定されている。

美術展のチラシの充実

2016年08月26日 09時51分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は森美術館に「宇宙と芸術」展を是非とも見に行きたかったのだが、予定表とにらめっこしているうちに、いくつか片付けないことがあるのに気がついた。残念ながら明日土曜日か、日曜日、ないし火曜日に延期せざるを得ないことがわかった。
 退職者会の会報の原稿をとりあえず仕上げなくてはいけないが、まだ原稿がそろっていない。今号は記事を埋めるので苦労している。いつもは記事を取捨選択、削ることに大半の努力を費やしているが、今回は真逆である。記事が少ない方が苦労する。
 午前中は所用があって関内まで出かけなくてはいけない。暑い中歩き回るのはつらい。

昨日の「ポンピドゥー・センター傑作選展」(東京都美術館)、そして昨日行きそびれた「宇宙と芸術展」(森美術館)、さらには「藤田嗣治展」(府中市美術館)といづれもチラシが凝っている。「宇宙と‥」はA3の二つ折り4頁仕立て、他はA4にして6頁分相当の折込みである。
 「ポンビドゥー‥」などは展示目録を兼ねているといってもいいかもしれない。「藤田‥」は11点もの作品の大きなカラー図版が刷り込まれている。しかもA3という大きさで一画面というものも多い。
 図版が多いということは私などにはとてもありがたいと思う。そして色の再現性も高いと思う。個人の生涯を網羅するような展示では極力図録を購入するが、「ポンビドゥー‥」や「芸術と‥」などのような場合は図録は購入しなくともチラシと展示目録などでも十分記録としても、記憶を呼び戻す縁としても役に立つ。
 昨日は「ポンビドゥー‥」でポストカード6枚を購入した。かなりの種類のカードが用意をされていて、良かった。150円で紙質もよく、ここまでする必要があるかというくらい厚手の紙である。
 ポストカードなどは学生などに人気があるようだ。少ない予算の中でどれを購入するか、という取捨選択が大いに勉強になるし、選択することで記憶にも残ると思われる。
 「木々との対話‥」展では一人の作家の作品を除いて写真撮影可能であった。小学生と思われる数人のグループが熱心にスマホで写真を撮っていた。各自が自分なりにアングルを工夫しながら撮影していて、そのために作品の細かいところも観察していたようだ。こういうのを見ると、手軽なスマホのカメラ機能も捨てたものではない、と思う。対象を観察する眼、撮影する技量、いづれもよい体験をしたと将来思えるようになるのではないかと感じた。

「ポンピドゥー・センター傑作選」展(東京都美術館)

2016年08月25日 22時09分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 「ポンピドゥー・センター傑作選」展は、1906年から1977年まで、一年一作品という構成である。1906年は日本史でいえば日露戦争の翌年で、日本が軍事国家としてアジアへ露骨な侵略を始める頃である。私の脳内にあるの世界史と日本史の乏しい知識をフル動員しながらの鑑賞は面白かった。
 また既存の作品の年代ごとの再認識はいい勉強になった。作品の前後関係を間違って記憶している物もあった。特に絵画作品と写真作品の時代の誤った記憶が多かった。
 展示目録ではなく、実際の作品を見ながら時代を追うというのはいい経験となった。特に1945年以前については‥。
 1945年については展示スペースはあるものの壁は黒く塗られ、天井の小さなスピーカーから、レジスタンスのシンボルとも云われたエディット・ピアフの「ラ・ヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)」が流れていた。いかにもフランスらしい演出なのかな、と思った。
 戦後、1960年代までの作品は日頃接する機会もあり、私自身との同時代性もあり、親近感のあるものが多かった。しかし1970年代以降の動向については私なりの作品世界と時代の特徴がうまく合致しなかったと思う。1970年以降のフランスや世界の時代相と日本の時代相、わたしなりに整理できていると思ったが、フランス芸術という視点から見た世界の時代相と、日本という狭い視野から覗いてきた世界の時代相とのギャップなのかもしれない。また私なりの時代の評価とズレがあるのかもしれないと思った。そのズレがどういうものなのか、これだけの展示とそれに対する違和感とからは何とも具体的に指摘はできない。感覚的にもうまく表現できない。

私の目に留まった作品は次のとおり

★1907年 ジョルジュ・ブラック「レック湾」


★1909年 モーリス・ヴラマンク「川岸」


★1915年 アルベール・グレーズ「戦争の歌」
この画家の名と作品は初めて目にした。むろん「戦争」とはヨーロッパでの第一次世界大戦である。


★1935年 パブロ・ピカソ「ミューズ」


★1948年 アンリ・マティス「大きな赤い室内」


★1949年 ニコラ・ド・スタール「コンポジション」
この画家と作品も私は初めて見た。前年のマティスの大作「大きな赤い室内」と並んで展示されると、この対照的な色彩がとても映えて見えた。マティスと対照的な色彩感覚にとても惹かれた。また他の作品も見たいと思った。


以下は展示目録
   

本日は東京都美術館だけでダウン

2016年08月25日 18時07分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は東京都美術館の「ポンピドゥー・センター傑作選」と森美術館の「宇宙と芸術展」を、と高らかに宣言したものの、挫折。
 午前中に眼科で診断してもらうつもりだったが、診察を待つ人で待合室は満席。しばらく時間をつぶして待っていたが、順番がまわって来そうもないので受付をキャンセルしてもらった。その足で上野駅まで直行して、アイスコーヒーで一服後に「ポンピドゥー・センター傑作選」を見て回った。
 これが思いのほか時間がかかったのが、原因であったと思う。理由はなかなか面白かったということ。1906年から1977年まで、一年一作品という構成である。私の脳内にあるの世界史の知識をフル動員しながら、自分の知っている世界の動きや日本の動きと同期しながらの鑑賞は面白い。また既存の作品の年代ごとの再認識はいい勉強になった。作品の前後関係を間違って記憶している物もあった。特に絵画作品と写真作品の時代の誤った記憶が多かった。
 展示目録ではなく、実際の作品を見ながら時代を追うというのはいい経験となった。特に1945年以前については‥。しかし戦後、とりわけ1970年代以降の動向については私なりの作品世界と時代の特徴がうまく合致しなかったと思う。1970年以降の世界の時代相と日本の時代相、わたしなりに整理できていると思ったが、フランス芸術という視点から見た世界の時代相と、日本という狭い視野から覗いてきた世界の時代相とのギャップなのかもしれない。
 そんなことを考えながら最後の1978年、ポンビドゥーセンター建設時の作品にたどり着いた時にはへとへと。
 本日の夜までに感想はとりあえずアップしてみたい。
 六本木まで行くことは断念し、同じ東京都美術館で開催している「木々との対話-再生を巡る5つの風景」展を見た。「ポンピドゥー・センター傑作選」展の半券提示で800円が500円になるとの表示に誘われた。なかなか面白い展示であったと思う。明日までにはこの感想もアップしてみたい。

 家の傍の眼科に戻ったのは17時過ぎ。受付締切前に何とか間に合って診察を受けることが出来た。この時間はずいぶんとすいていて助かった。

中桐雅夫「俸給生活者の詩」

2016年08月25日 10時06分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 俸給生活者の詩      中桐雅夫
      われわれには宿題はない
      われわれには明日がないからだ

朝、坂を下りて煙草屋の老婆に挨拶する、
夕、疲れた足をひきずって坂をのぼり、
走り抜ける自動車のガソリンを嗅ぐ。
銭湯にゆけば、クロールカルキの匂い、
細い道を家に帰れば、小鯵の煮付けと白菜のうすい匂い。
ラヂオのうえを油虫が走っていった。
永遠のくりかえし。

ビニールの黒い枠にかこまれた通勤定期(パス)、
それが僕の唯一の生存証明だが、
もしマンホールのなかへ落としても
鼠の死骸をおおう役目もできない。
電車に積み込まれた骸骨がガラガラ鳴った。
みんな僕の仲間で、
下水のなかをただ流れてゆくだけだ。

朝夕があり、ビニールの定期(パス)入れはあつたが、
日曜があり、デパートの食堂につれてゆく妻や子供もあつたが、
明日のない君や僕に、
いつたい今日はあつたのだろうか。
昼食にソバを食べた、
だから今日はあつたと思う。
何かで上役に叱られた、
だから今日は確かにあつたと思つているが。

「団体交渉」「越年資金獲得」
「組合員の身分保障」と、
ちょつと波立つた気持も、
すぐ帳簿のなかに綴じられてしまう。
それよりも厭なあいつの足をひつばつてやろう、
注射を二、三分おくらせただけで、
患者を殺したあの狡猾な医者のやり方で、だ。

合オーバーの買えぬうちに、今年も、
冬がきた。
埃くさい事務所の、こわれかけた椅子でも、
坐っている間はまあ気持ちがいい。
それから犬のように尾を振り、
老人のように眼をしばたたく、口ごもる、
泥の振子が鳴って、
「六(ろく)う時です」と帰りの時を告げるまで。


 これは「荒地詩集1953」から。「無言歌」という9編の連作詩の2番目である。この1953年、戦争が終わってから8年たってようやく中桐雅夫の詩に、生活の場面が読み込まれるようになる。その生活は悲惨である。悲惨というのは当時多くの人々がそうであったように貧しいのだか、それ以上に社会からの疎外感、社会との違和感、生きていくことへの徒労感というのが強く打ち出されている。
 これがさらに戦後の中桐雅夫の詩の根拠ともなると思う。死の匂いは表面上いったん見えなくなるが、決して消えたわけではない。


この秋、見に行きたい展覧会

2016年08月24日 22時06分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 先ほどアップした「ポンピドゥー・センター傑作選」(東京都美術館、~9.22)のほかに、今秋見に行きたい展覧会のチラシがいくつ手元にある。むろん他にも行きたいところはあるのだが、取りあえずチラシの手に入ったものは以下のとおりである。

 すでに開催されている展覧会では、
・「宇宙と芸術展」(森美術展、~2017.1.9)


・「豊かな海と暮らし~金沢区柴の昭和史~」(横浜市史氏資料室、~9.22)


・「藤田嗣治展-東と西を結ぶ絵画」(府中市美術館、10.1~12.11)


・「松本竣介 創造の原点」(神奈川県立近代美術館鎌倉別館、10.8~12.25)


 明日は時間が許すなら、「ポンピドゥー・センター傑作選」と「宇宙と芸術展」をはしごしてみる予定。
 府中美術館の「藤田嗣治展」はチラシも6頁立でなかなか優れている。解説も期待してみたい。藤田嗣治理解の新しい視点を期待したい。
 松本竣介と藤田嗣治は10月以降なのでゆとりをもって見に活けそうである。すでに松本竣介展の連続講演会の内2回は申込み済みで、当選となった。


明日は「ポンビドゥー・センター傑作選」

2016年08月24日 20時59分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日の講座「知っておきたい!ルネサンス美術の魅力」(講師:三沢恵子)で、「ポンピドゥー・センター傑作選」(東京都美術館)のチラシを配布してもらった。開催していることは承知をしていたが、チラシを見るのは初めて。1906年~1977年までの一年一作で72作品が並んでいるとのこと。ただし1945年は作品名が記されていない。講師からも特にこれは行って見てください、とのことであった、
 展示目録も配布してもらったが、興味のある作家が多数並んでいる。まだ展示会場も工夫があるようだ。明日は晴れということでもあり、出かけてみたい。
 東京都美術館なので65歳以上割引がある。初めての経験である。今回は1600円が1000円とのことなので財布はとても喜んで暮れるはずである。

現実味を帯びてきた台風10号の反転

2016年08月24日 18時11分23秒 | 天気と自然災害


 気象庁⇒【http://www.jma.go.jp/jp/typh/1610.html】も、26日から27日にかけて反転する可能性を示し始めた。
 反転するころには中心気圧930ヘクトパスカル、中心付近の最大風速45m、最大瞬間風速70m、暴風域440キロとなっており、「非常に強い」台風の定義にあたるようだ。今のところの予想では、大きさが「大きい」(強風域の半径が500キロ以上から800キロ未満)には相当しないようだ。
 しかし熱い海水温の付近で停滞している時間も長く、湿気を伴って北上するすれば大量の降雨と強い風が予想される。
 一昨日まで大量の雨が関東から北海道にかけて降っており、油断が出来ない。

あまりに蒸し暑い‥

2016年08月23日 23時19分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜に引き続き今の時間の虫の声は微かである。押しつけがましくもなく、かといって消え入りそうなか細い声でもない。このような静かな声が本日の私にはとても好ましい。
 本日は横浜でも大雨警報が発令されていたが、私の住んでいるところと横浜駅周辺はまったく降らなかった。雲がわたしの頭の上から覆いかぶさるように厚く垂れこめていたが、降ることはなかった。しかし異常ともいえるくらいに蒸し暑かった。
 夜になっても蒸し暑さは変わらない。部屋の中も外も。時々クーラーをつけて湿度を下げている。しかし暫くすると寒くなる。つけたり消したり、忙しい。
 1万6千歩ほどを歩いたが、時速4.7キロ、1時間あたり7400歩ほど。汗をかなり書いたが、それでも運動した、という感じに離れなかった。明日できればもう少し運動したいものである。

★虫鳴けりそこらの畳なほあつき   加藤楸邨


迷走台風10号

2016年08月23日 20時38分42秒 | 天気と自然災害
 台風11号と9号が去ったばかりではあるが、四国の南海上には台風10号が居座って迷走している。NHKでは以下のように解説を流している。今後さらに発達する可能性に言及し、進路は沖縄方面に向かうというところで終わっている。
 【http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160823/k10010651141000.html



 一方でこの後、北上に進路を変えるのではないかという予報もあるらしい。
 【http://matome.naver.jp/odai/2141476502525003401

 どういう進路かという「正しい予測」は私などにはわからないが、北ないし北東に進路を変えで引き返してくるというのは偏西風や高気圧の気圧配置からは説得力のありそうな気もする。
 海水温の高い海域で停滞しているということは、大型の台風に発達する可能性は高いので、今後の進路に要注意だと思う。


漂泊と蝉の声・虫の声

2016年08月23日 10時21分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩の虫の声とは反対に、朝から賑やかな蝉の声がしている。共に子孫を残すための懸命の努力に思える。蝉と秋の虫、体の大きさも声の大きさもちがう。それは分っているのだがどうしてこうも情感が違ってしまうのだろうか。
 同じように生を使い果たすように発している音であるし、当の蝉も秋の虫もそんなことは考えずにいるとは思う。だが聞いている人間はまったく別の情感を聞きとり、自分の情感に合わせて聞き取ったものを感じ取る。
 多くの人はそれを文化の歴史と捉え、その情感の表出を時代ごとの変容としても感じ取る。人間とは同時代の広がりだけでなく、過去という時間の広がりもまた獲得したといえる。多くの人は「DNA」の変容に結びつけるが、これは間違っているだろう。単なる習俗・習慣に連続と変化である。DNAの変化と結びつけられるとすれば時間尺度は多分1万年単位にしなければいけないかもしれない。
 さて、蝉の声が寂しさや静寂さの象徴と成り得る場合はどんな場合なのか。客観的な状況としては自然の中で聞いた場合であろう。また主観的な場面でいえば、人間との関係の破たんや社会との緊張に絶えられなくなった時の、自己防衛がはたらく場面ではなかろうか。

★閑さや岩にしみ入る蝉の声   芭蕉
 「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」と記した奥の細道の世界は、果たしてこの漂泊の思いだけなのか、漂泊の思いの根拠は何なのか、いつまでも私の頭にとどまっている疑問である。人間は常に漂泊の思いが自然に湧いているのであろうか。私にも「漂泊の思い」というのはある。この思いが湧いてくる時はいつも、人間社会との関係に疲労感や徒労感を感じた時である。どうにも自分の気持ちを表に出せなくなった時、人間関係の継続に断念が生じた時、そしてこれまでの関係からの飛躍を準備している時、等々である。
 この芭蕉の句が蝉の声の静寂さの典型としてあるのは、多分芭蕉がこれまでの俳諧世界からの断絶と飛躍を求めて奥の細道紀行に出立した時の根拠ではないか。社会的な関係から退行している時、人間に訪れる自然との親和性に「閑さや」と発見させた根拠があるように思える。
単なるアイロニーとしての「閑さや」であれば残念ながらこんなには人口に膾炙することはなかっと思っている。
 そして自然との親和性を感じる時というのは、ある意味で生への意欲の回復期の特徴かもしれない。漂泊の思いというのは、生の再生の根源的な欲求に近いものがあると最近は思っている。人間にとって生きることへの意欲を回復するということは、それなしでは生きていけない人間社会への再参入ということである。これまでの社会関係や、これまで付き合ってきた社会関係が醸し出す情感や、その集団が醸し出す言葉の意味を再構築したいという欲求に突き動かされるようになったということではないか。多くの人にとって新たな関係を構築するということはないかもしれないが、これまでの人間関係の再認識・意味の再確認ということも当然含まれよう。
 疑問は何時まで経っても氷解しないし、解決にはならないが、途中まで考える縁にはなる。


台風一過‥静かに沁みる虫の音

2016年08月22日 23時17分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では現在大雨・洪水・強風・波浪注意報となっている。警報や避難準備情報などはすべて解除となっている。ずっとアクセス不能であった「レインアイよこはま」も復帰した。外は静かに虫の音が響いている。空の雲もなくなり星が光っている。さすがに蝉の声は今はしていない。

 朝から頻繁に届いた災害関係のメールは60数本、友人からのメールとあわせて70本近くが届いたスマホも今は静かになった。

 本日の総雨量は104ミリ、瞬間最大法則は22.3メートルという表示がされている。本当に「台風一過」。明日はすっきりと晴れ間はなく雨模様の空と予想されている。今晩くらいは静かなひとときであってほしい。

 虫の声も抑制の効いた静かなバックグラウンドとして聴こえる。一匹だけ、あるいは一種だけ目立った鳴き声は聞こえない。虫もその夜に適した音色を知っているのだろうか。

★鈴虫とひとりの闇を頒ち合ふ   野見山ひふみ