Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

服用している薬とワクチンの安全性

2021年02月24日 18時08分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 市民病院でいつもの薬の処方箋をもらい、薬の受け取り、昼食、軽いウォーキング、一服&1時間ほどのウォーキングをこなし、16時前に帰宅。
 薬は変わらず。次回の診察は5月下旬。私が処方してもらっている抗血栓薬とCOVID-19のワクチンの関係を質問したところ、ワクチン接種には問題はないので、ぜひ接種してくださいと言われた。
 私は、ある鎮痛・解熱剤を服用すると服用すると蕁麻疹様の発疹が出る。それはワクチン接種に支障はないか、といこうを聞きそびれてしまった。ワクチンの接種後に発熱した場合に、解熱剤の服用は問題はないとの情報はネットには出ているが、ある種の解熱剤にアレルギーがある人が、そもそもワクチンの接種をしていいものかどうか、については情報がない。杞憂とは思えない疑問だと思うのだが‥。
 いつもの降圧剤を処方してもらっているかかりつけ医に聞くか、次回の5月末にでももう一度聞いてみることにした。今の政府の対応を見る限り、残念ながら十分に間に合いそうである。

 政府の公表している接種者の順番についてだが、高齢者の後に、高齢者施設での介護職員となっていることに首を傾げている。医療従事者の次に位置づけなければいけないのではないだろうか。順番について再検討が必要だと思っている。

 


抗血栓薬の処方

2021年02月23日 22時35分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日の昼前に、久しぶりに市民病院で、血液内科の診察の予約日。これまでどおり抗血栓薬の処方となるはず。たぶんまだCOVID-19のワクチンの情報は入っていないと思うが、処方されている抗血栓薬と私が蕁麻疹を発症する鎮痛剤についての情報も聞いてみるつもりである。多分まだ何とも言えない、という返事しかないとは思うが、とりあえずは聞いてみる。
 ワクチンに対する情報がようやく、そして少しずつ入ってきているものの、自分の状況に合わせた情報の取得は素人には難しい。そして素人判断はきわめて危険である。安心感というのは、難しいものである。

 朝から出かけるので、今夜中に印刷会社にメールで退職者会の機関紙のデータを送信することと、この間の血圧測定値の一覧表を用意する。

 これが終わったら本日は早めに入浴・就寝。


ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第30番」

2021年02月23日 20時56分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 2月18日からベートーヴェンのピアノソナタ第30番を絶え間なく聴いている。不思議なもので、とっつきにくそうな感じもあったこの曲が実に身近なものになってきた。
 第1楽章の二つの主題、そして第三楽章の変奏曲の主題と第1変奏が耳にこびりついている。特に第3楽章の第1変奏曲は耳について離れなくなった。CDをかけながら作業に没頭していても、この部分になると曲を意識する。キーボードの上をさまよっている手が自然に止まっている。そして変奏曲の主題にいったん戻り、もう一度聴き直すことを繰り返している。
 第1変奏は、共通点など思い浮かばないのだがなぜか約70年後に作られたエリック・サティのジムノペディの冒頭を思い出してしまった。病気で入院した直後のように、足を引きずりながらふらふらと歩いている自分を思い出した。
 こんなにも短い日数の中で、ベートーヴェンの曲を何回も続けて聴くのは、ヴァイオリン協奏曲くらいのものである。この曲を聴いたのは初めてである。
 病みつきになりそうである。


昼食は刀削麺

2021年02月23日 17時37分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 陽射しはあったけれども弱いながら北風が冷たい午後であった。私はウィンドブレーカーとサマーセーター、妻もダウンのコートはやめて厚手のセーターで出かけた。日陰では少し寒いと感じた。
 本日、昼食としては久しぶりの外食。一人650円の刀削麺の店に入った。器が大・中・小あり、私と妻はいつも小を頼む。十分である。別の喫茶店で250円のコーヒーも。一人分の合計は税込みで900円。74,000円の80分の1以下で十分に満足。
 帰りには園芸用品店により、ベランダのプランターの花にかぶせるフラワーキャップ、並びにビニールポットに入った花を3つ購入。あわせて1,600円ほどの贅沢をさせてもらった。
 店内ではジンチョウゲをたくさんそろえていた。しかし私には何も匂わない。寂しいものである。

 昨日十分に開いていたカワヅザクラも見てきた。3本の木、ともに北風にわずかながら花びらが混じるようになっていた。最初に咲き始めた花から散り始めたのであろう。行きかう人の多くが足を止めて見上げていた。
 モクレンの花芽はまだまだ固く、綻びそうには見えなかった。

 


カワヅザクラ

2021年02月22日 21時37分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 横浜駅近くの緑道に植えられたカワヅザクラ、ずいぶん咲いている。明日にはもう散り始めるのではないだろうか。本日はまた散ってはいないが、今にも花びらが風に散りはじめそうな雰囲気であった。
 「行政は歪められても、花が咲く時期はそう簡単には変えられない」と友人は言っている。しかし行政の公平性もそんなに簡単に歪められてはいけない。
 きっとこのカワヅザクラも、今の政権の汚職構造には怒っているであろう。「桜を見る会」で咲いていた桜も怒っているであろう。しかし花は行政を歪めている人間にも、私たちにも美しい姿を公平に見せてくれる。

 汚職列島の日本の行政よりも公平なものは花である。 


もはやまともではない‥

2021年02月22日 20時39分52秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 先ほど総務省と「東北新社」の「接待」に刺激を受けて、末端の地方公務員の許認可業務に携わった私のつたない経験を記載していたら、ニュースで次のようなことを伝えていた。
 「東北新社」から1回で7万円余の接待を受けた職員がおり、現在は官邸で働いているというのである。「憲法を順守し、国家公務員法等にのっとり‥」と宣誓し採用された公務員ならば、もう恥ずかしくて人前に出たくなくなるであろう。
 人が何を食べようと、その人が自分の金で飲み食いをしているならば何も言うつもりはない。しかし私など、10分の1以下の一人7千円の食事すら自分の金でもしたことはない。それほど高価な7万円の食事をおごってもらって、見返りがないはずがない。「返却すれば問題ない」という感覚ももう普通ではない。
 「接待漬け」になっている組織の状況が反映していないか。しかも業者との通常の「意見交換の範囲」という弁解に至っては開いた口がふさがらない。
 「行政がゆがめられてはいない」という政府の見解もとても受け入れがたい。行政が自社に有利になるように「接待」がある。一つの企業に有利になる運用を求めない限り、接待などだれがするのであろう。見返りのない「タダ飯」などありえない。

 二流時代劇でももう少しましな場面を設定するし、「悪代官」ももう少し言い訳を言うものである。


「接待」は汚職そのもの

2021年02月22日 20時09分28秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 16時半過ぎから突然風が強くなった。風の音が強まり、ベランダに置いてある軽い塵取りや箒などを慌てて飛び去らないような措置を講じ、鳥避けなどは室内にしまい込んだ。

 午前中は機関紙の入稿前の原稿を他の役員にメールで送信して、チェックをお願いした。さっそく3点ほどの訂正依頼があった。誤字ではなく、言い回しの改善など。
 実は記事の中に、アマビエの画像を貼り付けようと考えていたのだが、すっかり忘れていた。もう貼り付ける場所もない。新型コロナ感染症にまつわる記事も今回はなかったので、残念ながら断念。5月号には使うことがないような社会になっていてほしいものである。
 ところが、友人からメールがあり、政権担当者とオリンピック関連の組織のトップそのものをアマビエを使って退散させたい、と書いていた。新型コロナウイルス(SARS-CoV2)による感染症(COVID-19)もさることながら、こちらの害毒もまた、あるいはそれ以上に早く退散してもらわないと、ということであった。

 政権中枢にいることを利用して、息子を雇ってもらい、その息子が省庁の幹部を接待で事業を有利に進めた、というのであればそれは到底「別人格」云々で済まされるものではない。
 大体接待を受けるほうも、倫理規定などが頭にないように見える。私は地方自治体の末端で許認可行政を37年間続けた。職場に配属された瞬間から、「昼食に誘われたり、飲み屋に誘われたら、身をひるがえして帰ってこい」といわれ、「コーヒー1杯、缶ジュース1本、お茶1杯、たばこ1本も禁止」であった。
 末端の許認可とはいえ、道路の復旧の範囲の指示などは、掛け声一声で工事費で50万円、100万円の差が出る。公益企業者の下請けから仕事をもらう舗装業者にしてみれば、自腹での出費か、元受けから金が出るか、の瀬戸際の場合もあったと思われる。
 ある時、まだ1年目、24歳になったころ、竣工書類の間に何やら封筒をはさまれた。その場では気が付かなかったが、職場に戻ってみると、封筒から1万円の商品券が出てきた。あわてて係長に封筒を渡し、その業者を職場に呼びつけて「二度とこのようなことをするな。次回は局の総務課に伝える。財政当局に伝え、入札名簿から外してもらう」と伝え、始末書を出させた。
 しかし他の業者からも同じようなことが数年間は続いた。水道局や交通局などの公営企業の下請け業者はそこまではしなかったが、他の公益企業者の孫請けあたりからの仕掛けはいくつもあった。
 エピソードを二つほど。
 一つ目は、まだ私が20代の半ばのとき。マンションの建設にともない、傷んだ道路の復元の指導で建築業者と立ち会ったことがある。水道局の工事も同時に行われ、水道局と建築業者の負担区分の調整もあり、水道局の職員2名も同席した。土木事務所では私と同年代の同僚と2名。その時に建築業者の下請けで舗装業務を請け負った業者が、水道局の担当と私に封筒を手渡そうとした。そのときいつもは温厚な50代の水道局の職員が大声で、「何をしてるか。横浜市の職員をなめるな」と怒鳴った。いつも物静かだが仕事に精通し、業者指導も的確で教わることの多かった方の一括に私はびっくりした。封筒を手渡そうとした孫請けの業者は慌ててその場から立ち去った。水道局の職員が、「本日は不適切な行為があったので、協議は後日」といってその日は引き上げた。
 その水道局の職員からは、いかに毅然とした態度が必要かということを身をもって教えてもらったと今でも感謝している。立場上は指導をする立場ではあったが、同じ市の職員でもあり、業者指導の在り方では教えてもらうことが多かった。水道局の下請けの業者も一目も二目も置いていた方であった。
 実はこの事案のその後については、記憶がない。私は係長に報告して、あとの処理を係長に任せたことまでは記憶している。係長が、水道局の係長と電話で今後について話をしていたことも覚えている。それ以降の処理については、私が外れたところで道路の復旧の協議がなされたのだと思う。就職して2年目か3年目のことだったと思う。
 もう一つのエピソードは40代を過ぎてからのこと。台風で水害が発生しそうな時に、職員も夜中に参集して、作業に当たっていた。職員だけでなく、区内の建設業協会の幹事の社長数名も会議室で待機し、土嚢の手配や水が出た個所の手配を進めていた。
 徹夜でくたびれた時に、食事当番の私が、職員の食べた後の残り物であったけれど、待機している協会の社長3名に味噌汁とおにぎりと漬物の朝食を持って行った。しかしいつも見知っている区の建設業協会の会長でもあるT建設の社長が「ありがとうございます。しかし職員の皆さんが私たちから食事を供されれば、接待になります。私が今おにぎりをもらえば逆の接待になりますし、現場で頑張っている他の業者の方からも誤解を受けます」といって固辞をされた。
 私はとても感銘を受けた。横浜市の建設業協会でも有名な方だったと後年に聴いたことがあり、多くの信頼を得ている社長であったという。このような緊張関係というのは、市の職員だけでなく双方の自覚が必要だとも感じた。
 接待をする企業というのは、業界からも相手にされていないのである。競争相手を出し抜きたいというのは、それほど切羽詰まって追い詰められている業者ということの裏返しであると、教わった。

 私の経験した状況からすると、現在の国の上級公務員による接待などの状況では、とてもではないが、地方公務員は務まらないと思う。あまりに情けないものがある。


広重「冨士三十六景」から「武蔵小金井」

2021年02月21日 22時38分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日取り上げたのは「武蔵小金井」。広重は「名所江戸百景」などでは極端ともいえる近景のクローズアップにより、人気を博していた。現在の私もその大胆な構図が斬新に思えている。西洋の近代美術にもそれらは大きく影響を与えた。
 しかしこの「冨士三十六景」では、それは影を潜めている。解説によればこの「武蔵小金井」だけがその大胆な構図に匹敵するとのこと。確かにこれまで取り上げた「東都佃沖」の大型の船も、「さがみ川」の渡し船や葦も、「越かや」の赤い花をつけた樹木も、近景を大きくとらえているが、これまでの「極端」には程遠い。
 「武蔵小金井」では、桜の樹木が極端に大きいだけでなく、向こうが見える洞(うろ)を二つも描き、そこに富士山を描いている。近景の拡大でけでなく、これ見よがしに人のどぎもを抜く描き方である。こんな洞を持つ桜が花をつけるとは思えない。
 さらにこの作品では縦の樹木の並びはあるが、水平線の構図はない。あざといまでの近景の拡大を水平の構図は弱めてしまう。弱めることで成り立つ構図もあるが、ここではそれは採用していない。平凡になってしまうということなのだろう。
 また視点の移動もない。前回記載し忘れたけれども、「東都佃沖」では近景を見る視点はかなり下、地面に近い。しかし近景の大きな船といえども、下からの視点だけでなく、船の甲板が見えるためには視点は少し上に移動している。中景の船を見るにはさらに視点を上に移動し、遠景の街並みはさらに上に移動している。少なくとも近景の船の帆の上くらいまで視点は移動している。
 この「武蔵小金井」では視点の移動はないように思える。それは富士山を窓枠効果で強調した故であろうか。それとも川と向こう岸を右側に鋭角に描いて奥行き感を出したために、視点の移動がなくとも遠近感を出せたためであろうか。
 左から右への視線の誘導と、富士山をのぞき込む画面の向こう側への視線の誘導が桜の洞で交差している。
 私が気に入っているのは、白い鳥3羽と桜の花びらが背景の空の薄い青に浮き上がるように描かれているのが気に入っている。下のほうの桜は夕焼けの茜色を背景にほんのり赤く描き、対象的に描いている。マグリットの作品のように、異なった時間が1枚の中に収められているように思えるのだが、思い過ごしだろうか。

 北斎の「冨嶽三十六景」を強く意識して描かれた広重のこの「冨士三十六景」、構図の取り方も北斎以上に工夫が見て取れる。


5月上旬並みの気温

2021年02月21日 20時14分22秒 | 天気と自然災害

 久しぶりに横浜駅の地下街と百貨店の地下の食料品売り場を訪れた。日曜日ということもあり、ずいぶん混雑していた。
 友人に頼まれた横浜の銘菓ということで、洋菓子と月餅をまとめて友人宅に配送してもらった。どちらも有名な店であるので、特に問題はないと思うのだが。横浜に住んでいると特に菓子を購入するということもないので、情けないことにリクエストされると戸惑う。

 本日は横浜では14時ごろに21.9℃もあったという。5月上旬ころの気温とのことである。午後に出かけた時、生地の薄い長袖の開襟シャツに、木綿地の上着を着て出た。しかし10分も歩いていると汗ばんできた。
 横浜駅近くまで遠回りして、およそ50分、6000歩。途中で野球帽をリュックに、次いで腕まくりをした。上着を脱ぎたくなる直前に横浜駅近くに到着、しばらくは家電量販店の入り口近くの歩道の横断防止柵に寄り掛かって涼んだ。ハンカチで汗を拭っていると、歩いていた30代くらいの若いサラリーマンも3人ほど思い思いに横断防止柵で一休みを始めた。なんとなく親近感が沸いた。

 帰りは少し気温が下がったのであろうか、それほどの汗はかかなかった。しかし途中の公園のベンチでお茶を飲み、水分を補給した。公園では半袖姿の子どもが走り回っていて、活発な姿がうらやましくもあり、そして少し癒されもした。

 


「時間の累積」ということ

2021年02月21日 13時25分56秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 私は美術を見、詩歌を読むときは、これまでも無意識にではあるが、その作品から漂ってくる「時間」を感じ取っていたのではないか、と思った。
 「時間」というものは「累積」して「価値」が生ずる。その「時間の累積」が感じ取られる作品に私は共鳴しているとも言える。
 作者が「時間の累積」に自覚的かどうか、というのは作品とは別のことである。作者の意識があくまでも作者にとっての「現在」にこだわったものでも、ある過去から作品の作られた時点までの時間が類推されれば、わたしにとっては優れた作品に見えると思う。
 また作者が描く対象、言語で表現する対象から何らかの「時間の累積」を感じ取ってそれを表現しようとしていることがわかると、私の記憶にさらに残りやすいのではないか。
 同時に鑑賞した時点で、「時間の累積」を感じないものでも、ひょっとしたら時間の経過とともに作品自体が輝きを増してくるものがあるような気もする。多分そこに作用をするものは、作品が人間社会との関係の中で翻弄されてきたことと関係があると思う。社会に何らかの強い作用を与えたが故に、社会にもまれるようにして評価を受けてきた「時間」が作品に固着していく。そんな思いが頭の中で湧いている。

 工芸品が美術品の違いというのも、これも「時間の累積」による作用の結果などではないか。工芸品と美術品の違いは何か、職人と芸術家の違いは何か、ということをどう定義するかと問われることがある。そのようなときの一つの答えとして「時間の累積」という切り口も有効だと思う。

 日本で仏像というものがある。古代から近世にかけて、そして現代も盛んに仏像は作られている。仏像を美術品として制作するといよりも、信仰の縁(よすが)として作成されると思う。しかし時間とともに、あるいはその作品が時代の変遷の中で、人々の信仰や救いへの思いを託されることで、「作品」から「美術品」として変容していくのではないか。
 私は仏像や過去の建築物などは当時の装飾に基づいて復元すべきだと思っているが、古びて装飾が消えた現在の姿を残したいという思いというのは、ひょっとしたらできた当時の姿よりも、古びて黒ずんで表情もわかりにくいさまに「時間の累積」を読み取ろうとする意識があるのかもしれない。

 私が生きてきた70年近い時間、さらに生まれた数年前の時間というのは、ほぼ私が経験した時間である。家族や近しい諸先輩との付き合いの中で、この自覚的に体験した時間というのが感じられる作品とは共鳴しやすい。
 ただし同時代の社会の経験でも、自覚的にそれを自分の中に取り組み、格闘していないものには共鳴しない、ということは自明である。
 「時間の累積」とは、社会との格闘と言い換えることもできる。社会や周囲との摩擦なしに受け身だけでは格闘にならないとし、体験という時間も堆積しない。

 社会との格闘といえばきつい言葉だが、何かを受け入れるときの違和感・摩擦といえばいいかもしれない。就職して職場に根付こうとして以降、できるだけおおくの違和感を飲み込むことが自分にとっては成長であると思ってきた。
 受け入れるときの違和感や摩擦を自覚的に自分の中に、肯定するにしろ否定するにしろ組み込むこと、これもまた自分にとっての「時間の累積」である。
 これと共鳴する芸術作品との出会いが、うれしいと思う。


上弦の月

2021年02月20日 23時49分44秒 | 天気と自然災害

 2000歩余りの夜のウォーキングから帰宅。たった2000歩で汗ばむほどの温かさ。明日はもっと温かくなるという予報である。よく晴れている。
 上弦の月が天頂近くにあって美しい。半分よりは少し大きく見えるが半月である。月が明るいので見える星の数は少ない。それでもシリウスと、明るさの戻ったベテルギウスとリゲル、プロキオン、カペラがよく見える。とくにシリウスは異様に明るく輝いていた。


グレゴリオ聖歌を聴いて

2021年02月20日 22時41分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 先ほどオンラインの音楽鑑賞会でグレゴリオ聖歌というものを聴いた。以前に聴いた記憶がないので、多分私は初めて耳にしたと思う。グレゴリオ聖歌の旋法や構造については全くの素人である。
 とっさに思ったのは、朗誦のように聖書を唱えていく音階が、どこかで聞いたように思えて、いろいろ思い浮かべてみた。
 ようやく気が付いたのが、イスラムの礼拝のときに流されるコーランの暗唱と似ているように思えた。今度ユーチューブで検索してみて、両者を比較してみたくなった。
 時代的、地理的には両者に共通性があってもおかしくはない。そういうことについて論じているものはあるのだろうか、ということも調べてみたい気がする。
 そもそも朗誦ということでは、人間の発声構造から似たようなものになるということなのだろうか。
 どなたかご教示いただければ嬉しい。とても頓珍漢な感想なのかもしれない。

 


荷物運び

2021年02月20日 18時45分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 

 歩いて15分ほどのスーパーでの買い物に付き合った。帰りは私一人で途中の喫茶店でコーヒータイム。ここのサイフォンで淹れてくれるお店のブレンドコーヒーは酸味がなくコクがあり、私の好みである。15分ほどの読書タイム。久しぶりに「眼の神殿」を10ページほど。買い物した物の半分は私とともに妻よりも遅く帰宅。

 19時半からオンラインの音楽鑑賞会。グレゴリオ聖歌を聴かせてもらうことになっている。普段はあまり聴く機会はないので貴重な時間になりそう。


強風注意報

2021年02月20日 14時08分05秒 | 天気と自然災害

 昼前に最大瞬間風速18mの南西の風を記録している。今も強い風はおさまらないどころか、少しずつ強まっているように思える。風の音がそれを物語っている。外に出るのをためらってしまうほどである。気温も正午に15.4℃まで上昇。少し風が弱まったら外出したいが、無理であろうか。
 横浜市域には強風・波浪・乾燥注意報が出ている。

 午前中に退職社会の機関紙は送信されてくる予定の小さな囲み記事を除いて打ち出せるまでになった。これから打ち出して誤字・脱字のチェック。今回は写真が少なく、文字が多くなってしまった。

 本日も朝からベートーヴェンのビアノソナタ第30番。少しずつ耳になじんで、親しみもわいてきた。


広重「冨士三十六景」から「東都佃沖」

2021年02月19日 22時33分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 「東都佃沖」とは無論現在の佃島隅田川の河口から佃島を見ている。当時は江戸にはここまで大きな船が入り、小さな船に積み替えて江戸市中に運ばれた。
 ここでも縦の帆柱6本と海と葦原、そして地平線の横軸が直交している。遠景の雁の群れと手前の7羽の鳥も上下で呼応している。
 一昨日の「さがみ川」と構図は似ているが、大きく描かれた人物が消え、船をこぐ人物がごく小さく4人ほど描かれている。この作品も富士山は遠景にぽつんと添えられるように巣が枯れている。北斎の富士山は鋭角な頂上を持ち、小さく描かれる場合もランドマークのように人々を厳しく見つめる。時には荒々しく厳しい自然の象徴のようである。
 一方、広重の富士は鈍角で実景に近く、そして人々の営みを見守るように添えられている。鎮守の守のように人の営みを含む風景に溶け込んでいる。
 この対比が不思議なのである。北斎の冨嶽三十六景は横長の画面である。広重の冨士三十六景は縦長である。横長のほうがどちらかというと緩やかで安定感があり、落ち着いた画面だと感じるのだが、北斎と広重ではその反対の印象である。北斎の画面のほうが人物にも自然の現象(雨・風・波‥)動きがある。
 これはもう少し見比べながら味わいたと思う。私は北斎の作品も広重の作品も好きである。どちらにも惹かれている。