「湯灌」とは死者の体を清める行事であり、死者にとっての最後の沐浴です。
人が亡くなると都内では湯灌はしませんが、私の故郷の静岡では湯灌をしているようです。
その理由がずっとわからなかったのですが、先日、その理由が判明しました。
それは葬儀社による物語化です。
かつて親族によって行われていた葬儀イベントの湯灌は葬儀社によって代行して実施してもらうのが当然であるかのように物語化され親族にそのオプションを選択させるやり方です。
静岡の場合は東京と比べて葬儀業者の数が少ないので、業界挙げて「湯灌」実施は当たり前のこととした流れは作りやすいのかもしれません。
そもそも、その歴史ですが
「湯灌はもともと死者を沐浴させ、浄化するためのものであった。中世以降、・・多くの地域では遺族の重要な役割であった。たらいに座らせ、水に湯を入れて湯加減を調整する逆さ水で洗い、またこのときに仏教の影響で男女を問わず髪を剃ることもおこなわれた。それをおこなう人々は、裸に近い格好や藁縄などを締めるなど特別な格好をした。
一方で、明治以降、感染症対策など公衆衛生的な観点から消毒薬等によって遺体を拭くようになり、それが病院や家庭における看護の場において浸透していった」そうです。
看護師さんに消毒薬で体を拭いていただいているので、そもそもその後に体を清潔にする必要はないのです。
洗髪や髭剃りはしていないので、それをしていただくことを目的にした湯館はありかもしれませんが。
湯灌の都内での実施数が少なく、他県での実施数が多い理由は、推測するに「沐浴」サービスを実施しやすいかどうかの住宅事情や駐車場の有無などが関連していると思います。
と言うのも現代の葬儀における湯灌は、訪問入浴サービスとほぼ同じやり方です。
沐浴用の浴槽を自宅に持ち込んで、訪問入浴サービスの車からお湯を送り出し、排水された水はサービスカーに戻すやり方です。
やはり、ある程度の場所が必要となりそうです。
湯灌の実施の良し悪しをここで書いた訳ではありません。
コロナ禍後にも様々な問題が発生します。
・分散登校させるべきかどうか。
・時短を配慮した特別時間割は必要かどうか。
どれもこれも、正答がない課題ばかりです。
安全安心な配慮をしていることを保護者に「物語る」必要性を強く感じるのです。