こちらは最初に書いたもの。内容は加筆修正版を参照のこと。
(始めに)
今回より、「感情移入という病」、「君が望む永遠と感情移入」、「沙耶の唄と説明不足」(後二者は仮題)の三編をもって、感情移入と説明不足の問題をYU-NO、君が望む永遠、沙耶の唄の内容に絡めながら述べていく。差し当たっては、「感情移入」がどのような理由によって要求されるのかを考えてみたい。
(本文)
筒井康隆は『着想の技術』 . . . 本文を読む
悟りというと、そこへ到るために長時間座禅を組んで沈思黙考しているイメージがあるかもしれない。しかし実際には、座して考えるだけで深みに到達するのは不可能であるように思える。
思考とは水面に浮かんで消える泡のようなもので、想起したことを後にそれとわかる形で見直せるようにしておかなければすぐに失われてしまう。そして人は堂々巡りや後退を繰り返すのである。
座禅との関連で言えば、読経や写経のような行 . . . 本文を読む
自分のことを知ろうと努力し、「自分のことは理解できている」というのはまだわかる。
自分のことを知ろうとせず、「自分のことはよくわからない」というのもまだわかる。
しかし、自分を知ろうともせず、「自分のことは理解できている」と言うのは自己を過信する者か白痴かのどちらかである。自らの拠って立つ規範や感性を解明しようとしない者に自らを語ることは決してできないのだ。
自分とは、「よく見知った他人 . . . 本文を読む