古典教育の不要論が強く主張される理由に関し、「道具主義的に教わるものは、役に立つと実感されない限り、否定されるのが当然である」に続き、「再び古典教育不要論に関して」、「『ガラスの小びん』、古典教育、公益性」を書いてきた。そこで述べたのは、グローバリゼーションによって経済合理化と国民意識の解体が進むことにより、そもそも古典教育が目的として掲げているものに説得力を感じにくい人が増えていること、そして古典教育のあり方が本来の目的を忘れてお題目化しているのではないか?ということである。
後者は要するに、「生徒に古典文法を暗記させ、正しい現代語訳をさせる」という行為が、手段ではなく目的化しているという話だが、「むしろそれこそが目的なのだ」という見解及びそれへの批判(そのような主張はなぜ説得力を持たないのか)については次回取り上げるとして、ここでは古典教育の「目的」及びそれに関する現状の古典教育の問題点について私見を述べてみたいと思う。
さて、冒頭の動画でも言及され、実際よく耳にするのは、古典を学ぶことの意義とは、「その時代の人間=他者の考え方を知る」ことであり、特に古文については「日本人の精神性を理解する」というものだとされる。この見解に立脚するなら、古文の学習や古文の解釈ができるというのは、あくまで目的のための一手段に過ぎないと言う事ができよう。では古文の授業は、一般的にそれを成し遂げるような展開がなされているだろうか?『伊勢物語』の「東下り」を例に考えてみよう。
「東下り」とは、平安時代の主人公が、ごく少数の人とともに京都から東国へ旅する話である。そこにはしばしば京に対する郷愁の念と見知らぬ土地への不安が見られ、和歌とそれに対する反応も、それに基づいている。
さて、この文章を読むことで「その時代の人間の精神性を理解する」のが目的なら、それを逐語的に和訳することで十分かと言えば、全くそうではないだろう。
まずそもそも、この箇所からは主人公が何者かよくわからない。旅の目的もよくわからない。「東」の三河や駿河が今の静岡あたりなのはまあ調べればわかるとして、それを辺鄙とする感覚も今一つ理解できない。
地理感覚について、何を馬鹿げたことを言っているのかと思われるかもしれないが、例えばこの「東下り」を学習した高校生当時の自分(ちなみに熊本出身)の認識で言うと、京都と静岡の正確な地理感覚もわからなければ、むしろ静岡は東京とそんなに離れていないことから、「静岡が辺境?うちの方がよっぽどですけどw」ぐらいにしか思わないわけである(もちろんアホの極みだがw)。だから、東国にいてやたら涙している主人公たちの様子を見ても、「あ~、大切な人を残してきてるから心残りなのかねえ」ぐらいには思うが、その地理感覚や世界観がわからないので、その深刻さが全くピンと来ないわけだ。
とするなら、この主人公たちの心情(やそれを読でんいる当時の上流階級の人々の認識)を正しく理解しようと思うなら、主人公とされる人物の来歴と、当時の貴族の世界観を知らなければならない。
まず前者は、浮名を流した有名貴族の在原業平であろうとされており、彼が都でやらかして、離れた地に行かざるを得なくなった=「都落ち」的な落差があることはどの授業でもなされていることだろう。では次に地理感覚だが、これは伊勢物語だけ見ていても今一つピンと来ないだろうから、例えばもう少し後に成立した『源氏物語』などを参考にするのもよいだろう。
そこでは、やはり都で朧月夜とやらかした源氏が須磨に蟄居する話が出てくる。そこで源氏はそのあまりの鄙びた様子に驚きつつも、明石の入道やら明石の御方と出会い新たな人間関係を取り結んでいくわけだが、先に述べた現代熊本人の地理感覚からすると、そもそも京都から明石・須磨=兵庫に行ったぐらいで刑罰的な意味合いがあるのが全くピンと来ない。しかし、そこでの描写からすると、京都の人間にとって、その距離の落差が相当大きなものだったことがひとまず了解されるのである(ちなみに紫式部がこの顛末を描いたのは、在原業平の影響があったともされる)。
その他、玉鬘の当て馬として登場しながら、最終的には全くの道化として笑いものにされた近江の君もまた(この対比は源氏と頭中将の政争の行方をも暗示する)、その名前と辺鄙な地への認識の一端を垣間見ることができるだろう(まあ私はしち面倒臭い宮中の人物たちより、このキャラの方がよほど好きなのだけどw)。
さらに言えば、『源氏物語』には宇治十帖なる続編が存在するが、そこからわかるのは、現在京都府に含まれる宇治ですら、隠居先で済むような人のあまり訪れない場所だった(と京都の貴族からは認識されていた)ということである。いやそもそもだ。今の銀閣がある東山辺りについても、以前は洛外として厳密には京都に含まれていなかった(まあ東京在住の人間が、板橋区や練馬区、足立区を半ばネタで「別世界」のように語るのを想起してもよいかもしれない)・・・とここまで来て初めて、中央貴族の感覚からすれば、東=静岡が辺境も辺境であり、そこに少ないお供で旅をするという行為が、どれだけ心寂しく、危険なものであったかが多少なりともわかるだろう(それゆえに、「都鳥」の歌を聞いて乾飯がふやけるほど涙を流すことになる、と)。
そしてここからさらに発展させれば、いわゆる「坂東武者」とその台頭が中央貴族にとってどれだけインパクトがあったかも理解しやすくなるはずだ。言ってしまえば、到底自分たちが行くところではない「未開の地」からやってきた文化的素養などロクにない連中が、政治の中枢に食い込んでいったわけで、その中から平氏政権、そしてのちには東国に鎌倉幕府が誕生するのはよく知られたところである・・・
というわけで、ここまで述べたことで私が伝えたいのは、仮に『伊勢物語』の「東下り」を材料に「当時の人々の精神性を理解する」ことを目的とするなら、当時の日本や当時の貴族の世界観が今の私たちとどれだけ違うかを把握するために最低限これだけの周辺情報が必要ということであり、本文を逐語訳したところで全く足りていないのである。逆に言えば、この「東下り」を教える時に、本文の品詞分解や正しい逐語訳を目的として授業が行われているのであれば、私には手段と目的が転倒しているようにすら見えるのだ(文法や正しい現代語訳を教え、それを定期試験などで確認し、入試に備えさせることが目的化していませんか?て話)。
このような意見は「古典の授業というよりはむしろ、地理や歴史を含んだ総合的な学習内容では?」と疑問に思われるかもしれないが、むしろ今の高校の授業や大学入試は「科目横断的な知」が重視されるようになってきており、ゆえに今のような教え方の何が問題なのかむしろお尋ねしたいぐらいである。
また、こういった教え方は、時間的制約や教師の知識により実現が難しいという意見は出ると思われるが、それも映像授業の導入であったり、あるいは事前にYou Tubeの動画を見てきてもらうことを課題とするなどで解消は可能だろう。つまり古典教育の目的である「当時の人々の精神性を理解する」という目的を最大限効率化して達成可能性を高める(=効能の最大化の)ためには、教師はあくまで教室管理や質問対応、テストの結果確認といったチューター的な役割を担うようにすべきである、とさえ言いうるのである。この話はシステム的な議論になるので、機会があれば別で扱いたいが、要するにこういったことまで視野に入れることなく、ただ古典教育の重要性を訴え続けるのは、単なる既得権益の維持や、旧体制の思考停止的な存続であるとまで見なされるのではないか(要は単にポジショントークしてるだけなんちゃうんか?)、と述べておきたい。
以上。
【補足】
ちなみに今述べた話は、何も古典学習に限った話ではない。例えば以前も取り上げた、昭和歌謡(昭和28年)の「街のサンドイッチマン」で考えてみよう。
歌を聞けばわかる通り、歌詞を理解することは何ら難しくはない(まあ「燕尾服」とか「おどけ者」なんて言葉は最近とんと耳にしなくなったのでとっさには受け取りづらいかもしれないが)。
ではここで、「この歌は当時のどのような精神性を反映しているのだろうか?」と問われたらどうだろうか?内容的に、おそらく「貧しかった戦後間もない頃の昭和を象徴している」といった連想はできそうだ。しかし周辺情報として、このサンドイッチマンのモデルが、海軍大将っだった高橋三吉の息子であると聞けば、また大きく印象が変わる(深化する)はずだ。つまり、なぜ海軍大将の息子がサンドイッチマンなどやっているのか?という問いが生まれることで、高橋三吉がA級戦犯となったこと、その影響で息子の高橋健二も職を終われ、サンドイッチマンのような職業で糊口をしのがなければならなくなった、という情報に到る。
つまりこの歌は、確かにサンドイッチマンの悲哀を歌ったものではあるが、そこには公職追放、つまり戦前→戦後の価値観の変化であったり、かつて栄華を誇った人々の没落といった要素が背景にあるのであり、これが時代の人々の心情とも重なり、流行の一つの要素ともなったのである(「街のサンドイッチマン:それが象徴する時代」。なお、これを先の『伊勢物語』とのアナロジーで述べるなら、高橋健二は在原業平であり、そしてサンドイッチマン=没落した姿は、東=京都から離れた場所への都落ちと重ねることができる)。
こういった理解は見田宗介『近代日本の心情の歴史-流行歌の社会心理史』といった研究とも接続するが、重要なことは、繰り返しになるが、ただ書いてある内容を逐語的に理解したところで、そこにある精神性を深く理解するには程遠い、ということに他ならない(流行歌を元に当時の人々の世界観を分析するというのは、「『九段の母』から見る神仏習合の実態と神仏分離の影響度合い」などでも書いたことがある。そこでは、戦中に「九段の母」が流行したことを元に、国家主義の風潮が強まっていた当時でさえも、民衆のシンクレティズム的宗教意識がなお強く残存していたことを強調した)。
よって古典教育の目的が真に「古典の学習を通じて当時の人々=他者の思想や精神性を理解すること」であり、その達成に心血を注ぐべしと言うのであれば、周辺情報での補足(作品単体の点的理解ではなく他作品とのアナロジーなど含めた面的理解)が決定的に重要であることを再度強調しておきたい。
しかし、どちらも選択科目となっているので、古典を理解するための歴史背景や当時の思想を理解することが出来なくなります。
そのような中で「日本文化を理解するために、古典は必修にしないといけない。」と主張されても、片手落ちもいいとこだと思います。
コメントありがとうございます。まさにおっしゃる通りですね。まあ中高教員の教育課程であったり、中学・高校での授業時間数といった様々な制度的背景や仕組み上も制約はあるのだと思いますが、結局その仕組みがもはや時代に合っていないと言えそうです。
提案にある日本史探求や倫理を必修にすることが仮に単位取得上難しいとしても、そこから必要な部分を切り出して古典の中に始めから組み込んでしまえばいいんですよね。で、もし学校の古典の先生がそれを教えるスキルがない(なぜなら専門外だから)と言うのなら、そこは映像授業でまかなえばいいわけです。
これまた何でもかんでも人間が対面で教えること(=古い教示スタイル)に固執してるから起こってしまうわけで、本当に真剣に古典を公教育で浸透させようって気があるなら、制度的変化まで視野に入れて考えろよ、と私なんかは思ってしまうわけです(だから古典教育肯定派がしばしば現状維持派・権威主義派にも見えてくるわけですが)。
まあとはいえ、公教育の場において、古典教育のパラダイムシフトが起こる可能性はほぼないでしょう。もしあるとすれば、それは学校教育ではなく、YouTubeなどを通じてのリカレント教育のような形で、興味を持つ人たちが「趣味」で触れるみたいな感じになっていくんじゃないですかね。
乱文・乱筆失礼いたしました。
コメントありがとうございます。確かに、古典を歴史の流れの中で位置づけて教えるのは理想だと思いますが、単位の制約上(実際に、必修科目の言語文化は2単位で、その中の古典分野は1単位しかありません。)難しそうです。ですので、制度を変えるしかないと思います。
例えば、ゴルゴン様や私が考えているような古典と歴史を融合した教科を教えるなら、最低でも4単位ほど必要になると思われます。ですので、既存の教科を削減するしかないと思います。私自身は、体育(高校体育は
7~8単位とどの教科よりも多いです。)の単位数を減らし、また総合的な探究の時間も大幅な削減もしくは教科自体を無くして、単位数を確保するしかないと思われます。
それに加えて、ゴルゴン様や私が考えているような授業が行われるようにするためには、入試制度を変えるしかないと思われます。現行の入試制度は多数の学生が受験するため、どうしても客観性に基づいて採点しなければならないので、正解が判別しやすい読解試験となります。古典を学んで身に付けた精神的なものが測定されることはほとんどありません。
もしも、「古典を歴史の文脈で理解しているか。」「当時の人々の精神性を理解を理解している」を形式上でも測定したいのなら、小論文もしくは面接試験を行うしかありません。
ちなみに私が想定としているような入試問題は國學院大學文学部史学科の総合型選抜入試(選択問題の②の問題です。)ようなものです。
https://www.kokugakuin.ac.jp/assets/uploads/2023/06/420108921ee333168df162d4a4e9fd4a.pdf
だからこそ、 「日本人の精神性を理解する」事を第一目的とするならば、現行の共通テストや私立大学や国公立大学で行われている古典の入試は廃止しなければなりません。あのような試験は、99%原文の読解スキルしか求められていません。おそらくそのような能力はAIの方がはるかに高いでしょう。そして、日本人の精神性を理解しているかどうかを判断するためには、それこそ、日本史や倫理(日本思想)の分野で論述問題を課すべきであり、現行の原文読解スキルではないことは確かだと思います。
そして、古典教育肯定派が原文読解に固執するのは、「思考は言葉によって左右される。」といった価値観を前提としているからだと思われます。「人は言葉によって思考が左右され、その結果文化が創造される。
だからこそ、過去の文化や思想を理解するためには、過去の言葉を学ばなければならない。」と。しかし、「元々の思想があり、それを表現するために言葉が恣意的に結びついた。」とも言えると思います。
そのように考えますと、当時の人々の心情を形式上でも理解するためには、やはり、同時の社会状況をまず学ぶべきであると思われます。そして、過去から現代を通じて、どの時代でも共通する「日本人」特有の考え方
こそが、「普遍的な日本人の思考法」であり、それを第一に学ばばないといけないと思います。もしくは、過去の思想の中で、現代に最も影響を与えている思想から順に学んでいくことも考えられます。
だからこそ、平安時代でしか通じないような文法や言葉を学ぶ事に高校の希少な時間を割く根拠は非常に薄いと思われます。
しかしながら、いくら言っても、ゴルゴン様の考えと同様に、古典のパラダイムシフトが起こる事は困難なように思われます。現行の原文読解中心の古典でも、江戸時代の町人文学を取りあげるという方法もあると思いますが、
なぜかそのような町人文学はめったに取り上げられることはなく、言語文化や古典探究においても「平安文学至上主義」のような構成となっています。
例えば、数研出版の言語文化で取り上げられている題材は「宇治拾遺物語、竹取物語、枕草子、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、徒然草、伊勢物語、土佐日記、平家物語、おくのほそ道」となっています。江戸時代の文学は
おくのほそ道だけです。古典探究では、言語文化で扱ったにも関わらず、「伊勢物語、枕草子、徒然草」が再掲されています。その一方で、江戸時代を代表する作家である近松門左衛門の作品は一つもないといったアンバランス
な状態となっています。日本の「恋愛史」を理解するためには、江戸時代の愛と義理を理解する必要があり、そのためには、その愛と義理を中心に描いた近松の作品を読解するするのがふさわしいと思うのですが・・・。
数研のHPを見ますと、「特に『源氏物語』ではご要望の多かった「車争ひ」「柏木と女三の宮」を新規収録。物語上の重要なシーンをお好みに応じて扱えます。」(https://www.chart.co.jp/kyokasho/22kou/kokugo/koten/#contents)とリクエストに応じて増やしましたと高らかに宣言しているところから「平安文学至上主義」は変わらないような気がします・・・。
丁寧な返信ありがとうございます。2つに分けてお返事したいと思います。
【1】
>確かに、古典を歴史の流れの中で位置づけて教えるのは理想だと思いますが、単位の制約上(実際に、必修科目の言語文化は2単位で、その中の古典分野は1単位しかありません。)難しそうです。ですので、制度を変えるしかないと思います。(中略)だからこそ、「日本人の精神性を理解する」事を第一目的とするならば、現行の共通テストや私立大学や国公立大学で行われている古典の入試は廃止しなければなりません。あのような試験は、99%原文の読解スキルしか求められていません。おそらくそのような能力はAIの方がはるかに高いでしょう。そして、日本人の精神性を理解しているかどうかを判断するためには、それこそ、日本史や倫理(日本思想)の分野で論述問題を課すべきであり、現行の原文読解スキルではないことは確かだと思います。
おっしゃる通りです。正確に言えば、古典教育が目的としているらしいものへの到達方法は複数ありますが、現行のシステムでは極めて厳しいということですね。
私が古典教育肯定派のあり方に極めて懐疑的なのは、この点を厳しく論じているものを管見の限り見たことがないからです。古典教育が目指す理想からすれば現状は噴飯もの以外の何物でもないはずです。加えて、情報やら何やら新規の科目にも対応しなければならないのに、古典教育の目的達成のためのシステム変更(効率化・最適化)といった話はついぞ聞いたことがありません。
そのようなあり方に、私は古典教育肯定の人々の思考様式がおしなべて現状肯定的・権威主義的なものと映るわけですね。
もし仮に、私が真剣に古典教育が目指しているとかいう「当時の人々の思考様式を理解する」といった目的を真剣に達成せんとしていたならば、現状を見たら血涙を流して慟哭するレベルだと思うんですがね(例えば平安時代を考える時に『源氏物語』や『枕草子』しかイメージできないのだとしたら、現代日本において豪邸やタワマンに住んでいる高級官僚や大企業経営者の生活様式しか想像できないのと同程度には愚昧です。これはむしろ現代古典教育の弊害とすら言えるかもしれません)。
ちなみに、これだけだとただ腐しているだけにも聞こえかねないので代案を出しておくと、古典と歴史をクロスオーバーさせることはそこまで大きな変化をさせずとも工夫は可能と考えます(これは以前「漢字の到来と古典の学習について」という記事でも述べたことがあります)。
例えば、かつて京大で出題され、今でも一橋では出ている近代文語文を言語文化のスタートにする方法があります。現代文であるようで現代文ではない、つまり漢文の書き下しのような文体から始めて、そこから近世⇒中世⇒古代と遡行していく訳ですね。
その中において、現代日本語との連続性と差異といった視点で文法や古語を取り上げたり、あるいは現代でも人気のある作品の歴史的評価の変遷(例:『源氏物語』に関する『更級日記』と『源氏物語玉の小櫛』)を提示する、といったことを通じ、社会的通念の変化や連続性を考えさせる、といったアプローチがありえるでしょう。
なお、今の入試問題が古典教育が目的としているとかいう素養を問うものになっていない、という指摘は全くその通りだと思いますね。挙げていただいた國學院大学の問題はその点において良くできていると思います。まあ一作品の解釈の深化だとかなり難度が上がる可能性があるので、例えば『紫式部日記』と『枕草紙』を比較対照した現代文の評論を読解させる、といった入試問題のアプローチもありかと思います。
【2】
そして、古典教育肯定派が原文読解に固執するのは、「思考は言葉によって左右される。」といった価値観を前提としているからだと思われます。「人は言葉によって思考が左右され、その結果文化が創造される。だからこそ、過去の文化や思想を理解するためには、過去の言葉を学ばなければならない。」と。
この点について、そういう理念、というか発想法そのものに必ずしも反対する訳ではありません(例えば日英のバイリンガルが、同じ人間なのに双方の言語で意思表示の仕方が大きく異なってくる、なんて話も聞いたことがあります)。
ただ、これもそのような価値観へ真摯にコミットするなら、やはり教授法について真剣に考えずにはいかず、少なくとも今の教育スタイルに対しては極めて強い不満と改善要求をしない訳にはいかないのではないでしょうか。そしてそれがない時点で、やはりこれもお題目に過ぎない、というのが私の見立ててです。
前述のような価値観には、例えばソシュールといった様々な先行研究の影響があると思われますが、では仮にその言語学を意識した場合、古典教育は一体そこでどんな言語概念を提示しているのでしょうか?
これが全く等閑視されている事例として、試みに英語教育を挙げてみましょう。例えば、「我慢する」という言葉があります。これを表す単語として、大学入試レベルではstand/bear/endure/tolerateを上げることができるでしょう。そして、これを「同じ意味だからと言って全て等号で繋いで暗記するのが、今の英語教育」だと私は考えています。
この教え方は、単に単語の意味を覚えて出てきた英語文章を和訳するだけなら、なるほど合理的でしょう。しかし、実際の英語使用者のスタンスとして捉えるなら、これは完全に間違っています。というのも、例えばstand/bearは英語本来語で日常的で温かみ・親近感を与える単語なのに対し、endureはフランス語由来で優雅な印象を与え、tolerateはラテン語由来の厳密・厳格さを印象づけます。これは現代日本語で言えば、ある感情を表す時に、英語本来語⇒「ウザい」・フランス語由来⇒「煩わしい」・ラテン語由来⇒「煩瑣」といった事例で置き換えることができますが、この三つが全て=で繋げられると思っている人間は、果たして英語の何を理解しているのか?ということです。
この点について、英語の省略形がフォーマルな場に相応しくないことを理解できない、というか習わないまま入試現場で英作文に書いてしまう話として、東北大の問題を事例に「英語教育とレジスター(register)」という記事でも取り上げたことがありますが、まあ仮にも旧帝大受験者=日本の中では相当にレベルが高い人々の入試実戦レベルがこれであれば、生徒の能力値の問題というより、日本の英語教育がそういうものを全く重視していないことの証左と捉える方が適切だろうと私は考えています。
英語教育の話が長くなってしまいましたが、古典教育についても同様、というかもっと悲惨なのではないか?というのが自分が受けてきた教育にまつわる経験から考えていることです。
話すと長くなるので手短に書きますが、例えば助動詞の「る・らる」にある「自発」って意味は何なの?てどれだけの生徒が説明できるんでしょうかね?もちろん説明は非常に難しいんですが、ここで現代語の「先が思いやられる」みたいな事例がさっと出てくる人ってどれくらいいるんでしょうか(こういう思考がさっき申し上げた近代文語文からの遡行の話などにも繋がります)?他にも「めり」(見えり⇒視覚推量)、「なり」(「にあり」に由来)など枚挙に暇がありません。
あるいは単語で言うと、「よし」「よろし」「わろし」「あし」という表現から受ける印象の違いはどのようなものなのでしょうか?「良い」「悪くない」「良くない」「悪い」という置き替えでいいのか??
・・・といった具合に枚挙がない訳ですが、それこそ過去の人々の価値観・世界観を知るために必要なこういう言語概念について、一体どれだけちゃんと説明がなされているのか。もしこれが「単語帳の赤字の意味を覚えてこい、来週テストするぞ!」だったら、さっきの英語教育の件と何ら変わるところがありませんよね(ここには、古語を単なる記号としてしか暗記していない、という問題が横たわっています。それを現代の我々が理解するにあたっては、一度それらを漢字化した上でその概念的理解を土台に現代日本語化する、というプロセスを経ないとまあ理解には程遠いんじゃないかと思います)。
で、私は今の古典教育はまあせいぜいがこのレベルであって、だったら大変ご大層な理念は単なるハリボテでしかないと思う訳です。念のため補足しておくと、これは教える側だけの問題(怠慢)というつもりはありません。短い時間や生徒の興味の無さという制約の中で、テストで成績を付け、入試では点を取らせなければならない状況を踏まえれば、かなり苦労をされている人も多いのだと思います。
しかしそうなんだとすれば、今のこの制度的制約の中で、教師はただ趣味に走るか絶望の中で最低限の知識を叩きこむ方向で割り切るかし、生徒は何に使うかわからね~!と文句を言いながら、さりとて成績がつくから最低限はやるしかない、入試に受かるために詰め込むしかないという状態は、一体誰に何の益になっているんでしょうかね?と私は思うわけです(こういう話をすると、大抵「自分は違う」という一般と特殊具体の区別もつかない反論がきますが、日本全国で行われている公教育だからこそ問題なんですよね)。
そんな体たらくを、お題目で正当化してるような状況を見ると、そりゃあコマ数を削られるのは当然だし、何の役に立つのかわからんとより多くの人に言われるのも必然と言えるように思います。
以上です。
まあここからは前回と同じ結論になりますが、古典教育のパラダイムシフトが起きる可能性は(そのシステム変更の困難さから)ほぼ絶無で、であればゆるやかに死んでいくしか選択肢はないだろうな...というのが私の未来予想図な訳ですが、そんな惰性に巻き込まれる生徒たちはさすがにちょっとかわいそうだなとは思ったりしますね。
返信ありがとうございます。
「古典がなぜ入試に出題されるのか。」と考えた時に、それは古典が「数学程は難しくないが、単語を覚えないと点が取れない教科である。」という事に起因していると思われます。
そして、その事で誰が一番得するかと言えば、文系が大部分を占める私立大学の経営陣だと思われます。特に私立大学を目指す層に受験してもらおう(受験料を払ってもらう)ためには、数学を課すのは悪手です。実際に、早稲田大学の政治経済学科が数学を入試の必修科目にした年には、志願者が大幅に減少しました。
その視点で古典という科目を見てみますと、経営陣からは、「受験生が努力したかどうかを簡単に測定できる」となり、一方の受験生からすれば、「覚えるだけで、大学に入学できる。」といった双方ウィンウィンの関係が成り立つわけです。
だからこそ、ある種のゆがみが生じています。それは経済学部なのに、数学が課されていないということです。経済学は数学が必要なのは言うまでもありません。経済学を修めるのであるならば、本来は数学を必ず入試で課さなければなりません。
そのように言いますと、古典必修派からは、「もしかしたら、二宮金次郎の研究をするかもしれないし、そうなれば古典を原文で読めなければならない。」と主張してくるでしょう。それに対しては、「それはごもっともだか、その前に数学をやれよ。」って話になります。
つまり、古典は簡易努力測定ツールとして便利な道具に成り下がっているのです。つまり、長年、古典を道具として使ってきたのは大学側なのです。学問上、数学が必要であるのに、目先の受験料収入の為に、数学を除外し、古典を使用し続けてきたのです。
そして、ゴルゴン様が以前のブログにて、おっしゃていたように、「道具主義的に教わるものは、役に立つと実感されない限り、否定されるのが当然である」となります。ある意味、今の古典不要論は、そのような大学の姿勢の写し鏡とも言えるかもしれません。
要は、「あなた方(大学)が古典を道具としてみなしているのだから、私もその姿勢を見習っただけだ。どうして、私は非難されなければならないのだ。あなた方はよくて私はダメなのか。それは単なるダブルスタンダードではないか。」となるわけです。