こちらは最初に書いたもの。内容は加筆修正版を参照のこと。
(始めに)
今回より、「感情移入という病」、「君が望む永遠と感情移入」、「沙耶の唄と説明不足」(後二者は仮題)の三編をもって、感情移入と説明不足の問題をYU-NO、君が望む永遠、沙耶の唄の内容に絡めながら述べていく。差し当たっては、「感情移入」がどのような理由によって要求されるのかを考えてみたい。
(本文)
筒井康隆は『着想の技術』の中で、日本においては小説が現実を投影したもの、あるいは現実らしさ(一言で言えば「リアリズム」)を持っていなければならないという立場が支配的で、これが欧米とは異なっていると指摘する(前掲書 79~92p。作り事なのだから、必ず現実を反映していなければならないなどという決まりはないはずだが…)。要するに、「虚構らしい虚構」(例えば同じく筒井康隆の「虚人たち」などがわかりやすい)や作り事であることを意識した荒唐無稽な内容を理解する感性に欠けているということなのだが、そのような差異はどのようにして生まれたのだろうか?
ここで考えられるのが「感情移入」である。感情移入について、山本七平は『空気の研究』の中で日本人が対象への感情移入を容易に行う傾向があると述べている。この見解を鵜呑みにすることはできないが、人称表現においてもフランス語と日本語の差異などが指摘されており、(たとえ相対的にでも)日本語・日本人が対象に埋没する(=入り込む)傾向を持っているとは言えるだろう。そしてゲーム関係のレビューにおいて、「感情移入できる・できない」といった評価がしばしば表れること、しかも「感情移入」が評価の基準になる根拠を全く問題にしていないことは、いかに作品に「感情移入」するのが当たり前と考えられているかを証明している(ただし、山本の感情移入とレビュワーたちの「感情移入」が全く同質のものとまでは言えないが)。
それが「虚構らしい虚構」の生まれない理由とどう関係があるのか?そういう特徴を持つ作品は「感情移入」の材料となる現実との接点といったものが少なかったり、あるいは移入できたと思った時点でそれが虚構であると見せ付けられるため、気持ちよく対象に埋没できないということだろう。芥川「地獄変」の良秀は、「実際に見ないと書けない」と自分で言うような絵師だが、この立場が受け手に移ったものと評せるだろう(「実際に経験した、ありそうな(気がする)ものでないと読めない」というわけだ)。つまり、現実との繋がり(要するに「自然主義的リアリズム」)を常に感じられる作品でなければ安心できないのだと考えられるのである。
君が望む永遠はこの「感情移入」によって不当な評価を受けているゲームであり、また沙耶の唄は(おそらく)SFにおけるリアリズム(細かい説明・設定の要求)によって「説明不足」の評価を受けることのあるゲームだが、次回はその評価を批判的に扱うことにしよう。
(始めに)
今回より、「感情移入という病」、「君が望む永遠と感情移入」、「沙耶の唄と説明不足」(後二者は仮題)の三編をもって、感情移入と説明不足の問題をYU-NO、君が望む永遠、沙耶の唄の内容に絡めながら述べていく。差し当たっては、「感情移入」がどのような理由によって要求されるのかを考えてみたい。
(本文)
筒井康隆は『着想の技術』の中で、日本においては小説が現実を投影したもの、あるいは現実らしさ(一言で言えば「リアリズム」)を持っていなければならないという立場が支配的で、これが欧米とは異なっていると指摘する(前掲書 79~92p。作り事なのだから、必ず現実を反映していなければならないなどという決まりはないはずだが…)。要するに、「虚構らしい虚構」(例えば同じく筒井康隆の「虚人たち」などがわかりやすい)や作り事であることを意識した荒唐無稽な内容を理解する感性に欠けているということなのだが、そのような差異はどのようにして生まれたのだろうか?
ここで考えられるのが「感情移入」である。感情移入について、山本七平は『空気の研究』の中で日本人が対象への感情移入を容易に行う傾向があると述べている。この見解を鵜呑みにすることはできないが、人称表現においてもフランス語と日本語の差異などが指摘されており、(たとえ相対的にでも)日本語・日本人が対象に埋没する(=入り込む)傾向を持っているとは言えるだろう。そしてゲーム関係のレビューにおいて、「感情移入できる・できない」といった評価がしばしば表れること、しかも「感情移入」が評価の基準になる根拠を全く問題にしていないことは、いかに作品に「感情移入」するのが当たり前と考えられているかを証明している(ただし、山本の感情移入とレビュワーたちの「感情移入」が全く同質のものとまでは言えないが)。
それが「虚構らしい虚構」の生まれない理由とどう関係があるのか?そういう特徴を持つ作品は「感情移入」の材料となる現実との接点といったものが少なかったり、あるいは移入できたと思った時点でそれが虚構であると見せ付けられるため、気持ちよく対象に埋没できないということだろう。芥川「地獄変」の良秀は、「実際に見ないと書けない」と自分で言うような絵師だが、この立場が受け手に移ったものと評せるだろう(「実際に経験した、ありそうな(気がする)ものでないと読めない」というわけだ)。つまり、現実との繋がり(要するに「自然主義的リアリズム」)を常に感じられる作品でなければ安心できないのだと考えられるのである。
君が望む永遠はこの「感情移入」によって不当な評価を受けているゲームであり、また沙耶の唄は(おそらく)SFにおけるリアリズム(細かい説明・設定の要求)によって「説明不足」の評価を受けることのあるゲームだが、次回はその評価を批判的に扱うことにしよう。
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