緻密な心理描写か迫真の演技のどちら一方でも、そのゲームは傑作となりうる。そして君望はその両方が融合しているがゆえに、傑作の中でも一際飛びぬけている存在なのだ。
心理描写については何度も書いてきたのでくり返さないが、演技については少し触れる必要があるだろう。君が望む永遠でキャラの声が真に「演技」と言いうるレベルまで昇華されているのは、いわゆる「間」や息を飲む声をしっかりと実演しているからに他なら . . . 本文を読む
国内に関しては、今まで海の見える駅に行ったことがない(海外旅行ではトルコのハイダルパシャ駅が一応該当する)。一度でいいから海の見える駅、しかもほとんど無人のような寂れた駅で、一日中写りゆく風景(海、空、そして人)を眺めてみたいと思うのは私だけだろうか?
それが時の止まった空間だと言うなら、それこそ私の望むものだ。その世界で何秒動けるか…じゃなかった、どれだけ自分自身が溶かされるのか、無我の境地 . . . 本文を読む
俺はドリップしたコーヒーにこだわったりするほど「通」じゃないが、少なくとも、アイスコーヒーに関しては絶対にネスカフェにすべきだと思う。
疑うなら、今度飲み比べてみるといい。それでもわかりにくければ牛乳を入れてみるとハッキリする。
値段はほとんど同じなのに、両者は全く別物である、と。
ネスカフェを飲んだ後だと、ぶっちゃけブレンディは「コーヒーっぽい味のする何か」にしか感じられない。
というわ . . . 本文を読む
小5の頃のメガストアと言えば、PC-98の同級生が発売されてまもなくの頃で、OVA「黒猫館」が紹介されていたり、今は亡きボンびいボンボンの新作「美少女ハンターずっこんX」(ここで微妙に紹介されている)が大きく扱われるなどしていた(よほどのニンゲンじゃねーとこのどちらもわかんねーよなーw)。その他「天使たちの午後」なんてのもあったり…
このメガストアとの出会いは、忘れもしねえ11月、熊本は楠のA . . . 本文を読む
『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)という本のタイトルを見てちょっと気になったこと。
最近他人をすべからく見下す人が増えている、という意見がある(つまり、「俺様以外はバカだ」というわけだ)。この見解が正しいのか間違っているのか、私には何とも言えない。こういう事象は非常に感覚的なものであり、客観的に比較することは困難であるからだ。少なくとも、この手の話を印象論で語ると非常に危険であるのは間 . . . 本文を読む
「奇跡」のコンセプトの例として、圭一の非常に重要なセリフを書き忘れたので追加しておく。
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いや、奇跡じゃないんだよな。奇跡はみんなの力を合わせれば起こせる、
その程度のものなんだ。一人では絶対に成し得ないことが、みんなでならできる。
一人では奇跡でも起こらなければ成し得ないことが、みんなでならできる。 . . . 本文を読む
祭編にアナザーエンド(?)があるのはすでによく知られていることだと思う。いやそれどころか、公式HPの掲示板ではこのエンディングの場合に雛身沢が辿る運命まで考察されており、けっきょく小泉の心残りがダム計画の阻止と研究所の創設を招くのではないか、などと言われてさえいる。
このように(計算してか偶然か)読み込んでみるとなかなかおもしろいアナザーエンドだが、ここに現れている少女が梨花だとすると、生まれ . . . 本文を読む
今までずっと疑問に思ってたんだが、漢字の書き順って何の意味があるのだろうか?例えばアラビア文字のように繋げて書く形式なら、後ろに繋げやすくするために書き順を決めることはとても重要だし合理的だ。だが例えば、今日草書を滅多に使わない漢字の書き順を知ったり、それを守ったりすることに何の意味があるのか?「しんにょう」を持つ漢字で右側(しんにょうではないほう)から書くことにどんな合理性が存在するというのか? . . . 本文を読む
さて、この「ボゲードンの朋友」の記事も900を数えるところまできた。まだ一年にも満たないのにこれほどの分量になったことには、我ながら驚きを感じざるをえないが、まあとりあえず900回記念として、今扱っているひぐらしの中でも重要なテーマ、「奇跡」について考えてみたい。
ひぐらしの「奇跡」について考える場合、作者の竜騎士氏が傾倒していると言われるkey作品(kanonなど)の「奇跡」と比較対照すると . . . 本文を読む
作品の方向性を正確に分析・理解しようとすることと、その内容を受け入れることは全く別物である。例えば私の場合、鬼隠し編のラストの真実とそれに対するひぐらしの主張は全く受け入れられないものだ。
鬼編のラストは、幻想の中に囚われた圭一が収容される前に魅音とレナが現れ、励ましの言葉を書く、というのが真実であった。これに罪編やら皆編の主張を掛け合わせると、つまり「やっぱり友情は本物だった。疑ってゴメンナ . . . 本文を読む