久しぶりに「ノーカントリー」を見たが、殺し屋がバナナマンの日村に見えてしまいしばらく笑いが止まらなかったw . . . 本文を読む
本来なら「沙耶の唄:エンディングの『失敗』」という記事の続きを書いていく予定だったが、あえて古いレビューを掲載しておきたい。というのは、前掲の記事において、私がいかにして「沙耶の唄」という作品に境界線の曖昧さを見るようになったかを同時代的に説明しているが、以下の記事もまた当時の雰囲気をよく伝えるものだからだ(まあ掲載時期が2005年11月末であり、初プレイから3カ月程度しか経過していないのだからそ . . . 本文を読む
前回は少し視点を変えて、「沙耶の唄」以外のニトロプラスの作品でも善悪の境界線の曖昧さ、あるいは人間とその他の存在の境界線の曖昧さが共通して描かれている、という話をした。ここからは方向性を元に戻し、作者が意図していた「沙耶=異物」図式が伝わらなかった主要因の一つ、エンディングの「失敗」について再掲載していく。今回は始めなので、そもそもどんな状況で私が沙耶の唄をプレイし、エンディングを見たのか、という . . . 本文を読む
「沙耶の唄:市場分析の欠落と誤読」の続き、というか別の視点から見たお話。繰り返し書いてきたように、「沙耶の唄」という作品には境界線の曖昧さや等価性が表現形式のレベルまで刻印されている。作者がそれを意識できてないのも不思議だが、同じような作風がヴェドゴニアにも見られるため、ますますもって不可解だ、と以下の文章では述べている。ただまあ事態はむしろ逆で、無意識なの同じ特徴を持っているということは、そうい . . . 本文を読む
「沙耶の唄:作者のナイーブな期待と認識」において、次のように書いた。すなわち、沙耶の側へ親和的になる表現方法・内容となっているため、沙耶の唄=恋愛モノといった受け取り方をする人間が多かったのは極めて自然であること。しかし理屈では沙耶の側を全面的に支持するのは欺瞞であることが明白なので、感情と理屈のズレによって内省・葛藤が生じ、世界認識の変化をもたらしうる作品になっている、と(逆に言えば、そのような . . . 本文を読む
というわけで、予告通り「沙耶の唄」についてまた書いていきますよと。以下の内容は「二項対立と交換可能性」に続くものとして書いたものだが、前回説明した視覚がもたらす等価性が、善悪の境界の曖昧さ(恣意性)を意識づける機能を果たしており、それゆえに沙耶の唄=恋愛モノと捉える人が多くいても全く不思議でないという話をしている。
あえて言うなら、沙耶の唄のテーマそのものはそう珍しいものではない . . . 本文を読む
さっき「魔法少女まどか☆マギカ」を見終えた。個人的には「ぼくらの」を強く連想し、内容的にも「アンインストール」がぴったりだと思った。
あとは、これから掲載予定の「沙耶の唄」に関する記事がずっとはるかに書きやすくなったというのが大きいかな。「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」や「二項対立と交換可能性」で「感情移入」のフック(演出)や動員の構造などについて作者のナイーブさを批判したが、沙耶とイン . . . 本文を読む
今日はサンシャイン60前のブックオフで岡崎京子の『カトゥーンズ』、同じく高田馬場駅前で『テイクイットイージー』を購入。んでその時、なんでかわからんが「あ~もういいや」という気になった(まあ憑き物が落ちたってことなんだろう)。とりあえずこれから杉並区のブックオフをハシゴして、岡崎京子の本集めを一段落させることにしよう。あぁ、あと「秋の日は釣瓶落し」のレビューも気が変わらないうちに書かないとな・・・ . . . 本文を読む