自己責任論、ゼロリスク信仰、孤人主義

2023-12-14 16:12:34 | 生活
 
 
 
 
 
 
なるほど、「ナイフを持っている人間からは戦わずに逃げろ」か。戦い方を知っていれば何とかできるかもしれない、というのは基本的に妄想なんやなあ・・・
 
 
あ、どうもゴルゴンです。日本社会で生じている諸々の社会的問題って、しばしば「自己責任」の一言で片づけられるのを見ますが、そういう切断処理をして自己や社会とは関係ない話だと決めつけ問題を放置した後に、どういうリスクが生じてくるのかってどんだけ考慮してるんですかねえ?と思いマス。
 
 
これはあえて断言してしまいますが、「ほぼゼロ」だと私は考えます。というは、ネットの書き込みなどで見られる自己責任論は、基本的に「突っ込みどころがある→同情の余地がない→だから自分はこの人間に同情しない→勝手に自分で何とかしろ」という精神の動きを可視化したものであり、繰り返しますが「自己や社会との切断処理」にその本質があるからです。
 
 
よって冒頭の動画にも関連させるなら、「問題を放置したことにより脱社会的存在が増える→予測不可能な犯罪の増加→心理的不安の増大と対処のコストの増加」という点で、発言者にもバッチリ跳ね返ってくる問題なんですよね。
 
 
もちろん、そのことも踏まえた上で、「それでも自分が同情心が湧かない人間たちを助ける気なんか起きない!奴らが破滅して暴徒化するなら自衛するまで。実際護身術を習い始めたし、護身用グッズは持ち歩いてるし、家の防犯構造を強化した」という人もいなくはないでしょう(まあそれでも、列に並んでたら後ろからいきなり刺されるとかだったら対処のしようがないんですけどね。それとも移動は全てマイカーで、外に出たら防刃ベストにフルフェイスで過ごしますか?w)。ただ、社会的施策としてそれは本当に「合理的」なんでしょうか?
 
 
「合理的」と書くとギョッとされるかもしれませんが、切断処理をして自己と無関係化を図ることを当然だと思っている人に対し、「基本的人権」とか「生存権」とか「共生」とか言っても響かないと思うんですよ。だから、放置するのとケアするのはあなたにとってどっちが合理的な社会になると思い?そしてその理由は何ですか?と自己責任論を展開する人には聞いてみればいいんじゃないですかね?そうしたら、自分の価値観や不快感に脊髄反射的に従って発言しているだけの社会性が欠落した人なのか、それともその人なりに体系化された社会設計の論理の中で放置した方が社会的に「ベネフィット>コスト・リスク」だと判断しているのかがわかると思うからです(まあ一応言っておくと、自分が損しても他人が得するのが許せないという「スパイト行動」が日本では相対的に強いとされているので、結論そういう行動原理が浮かび上がる可能性はもちろんありますが、だとすればそれを可視化して共有し、その傾向のデメリットも早いうちから教育などで教育・調整するという手当てが可能です)。
 
 
ちなみに後者はどんな思考回路やねんと思うかもしれませんが、人口増加率から福祉を止めるべきと主張したマルサスの『人口論』はその典型ですし、あるいはもっと基礎的な話で言えば、いわゆる「トロッコ問題」で焦点となる「最大多数の最大幸福」をどう考えるか何かも同じで、実は割とありふれた発想・思考実験です。まあもっと具体的な話で言えば、16世紀イギリスで第一次囲い込みで土地を失った農民が都市に流入し、それによって治安が悪化したのを受けてエリザベス1世が救貧法を発布したことなんかが挙げられます。
 
 
で、今のような見地に立つと、日本の自己責任論はそのほとんどが「自分とは関係ないという切断処理=思考停止の正当化」であって、自分にも影響しうる事柄だという当事者性や普遍主義的思考(言い換えれば社会性)が欠落している、と少なくとも私は思うわけです。そしてそれゆえに、「短絡的な自己責任論」としてしばしば批判するわけですね。
 
 
では、次回はそれを踏まえ、なぜ日本ではこのようなマインドが強くなるのか?について、「ムラ共同体的メンタリティ」と「ゼロリスク信仰」の2つの側面から考えてみたいと思いマス。

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