ゲーム関連の記事を消していた際に間違って削除したっぽいのでもう一度掲載しておく。なお、[死亡確認]と断り書きをしている部分はリンクを貼っていた記事が消えている箇所。いずれ復活させるかもしれない。なお、冒頭にある「ゾイド」に関しては「ゾイド~復讐と停戦~」という完成稿があるのでそちらを参照。
<原文>
あなたは もう 忘れたかしら ゾイドの話を書いていたのを
(はじめに)
1月半ほど前、「ゲーム性や設定の評価」でゾイド2のゲーム性や設定部分に関する評価[死亡確認]を書いた。よってここでは、ストーリー展開やテーマについて論じていきたい…というのが当初の流れだったが、あまりに分量が膨大になりそうだったので分割することにしましたよと。具体的には、ドラクエシリーズにおける「かたき討ち」とその効果を論じた上でゾイド2におけるそれを考えていく予定だったが、ドラクエとゾイド2のかたき討ちを分けて書くことにする(なお、「復讐」という表現でもいいのだが、いささか重すぎてイメージにそぐわないのでこの言葉を使うことにする)。
そもそも、ドラクエにおけるかたき討ちの演出は、ドラクエ4のそれを始めとして指摘している人が少なくない。それゆえあくまでゾイド2との比較の対象として持ち出すつもりだったが、上記のような事情によりここでも一度考察してみることにする。
(本文)
小学2年でゾイド2をプレイして印象に残ったものの一つが、次々と死んでいく味方の姿だった。それと深く関わるのだが、再プレイして二つのことに気付いた。
1.「彼女の死→かたき討ち」という図式
2.敵の死が(視覚的には)全く描かれていないこと
以下、1について述べてみたい。
「彼女の死→かたき討ち」というだけではいささか抽象的な印象を受けるかもしれないので、影響関係はさておくとして、ドラクエシリーズを例にとって考えてみよう。
上記の「彼女」を「身近な者」に置き換えるなら、その要素が初めて登場したのはドラクエ3である(※1)。死んだと思っていたオルテガとゾーマの城で再会したのもつかの間、彼はキングヒドラとの戦いで死んでしまう。つまり構造的に言えば、ゾーマを倒すのは単に勇者だからという理由に留まらず、父親の仇という要素も含まれているのだが、父親と再会するのはほとんど最後であるだけなく、そのことをプレイヤーが受け止める間もなくすぐに死んでしまうため、実際には彼のかたきを討つという意識が生じたプレイヤーは少なかったと推測される(ちなみに、俺自身はオルテガの戦い方があまりに下手クソ+勇者たちがなぜか助けに入らないことに笑っていたw)。
次なる4では、まず愛すべき褐色エロ姉妹(笑)ミネア・マーニャの話が父親の仇討ちをテーマとしているわけだが、物語開始段階で父親がすでに死んでいることもあり、プレイヤーへのアピール(動機づけ)はおそらく皆無だったと思われる(※2)。しかし、次なる勇者のエピソードは違う。勇者にとってのかたき討ちとはシンシアのことだが、彼女(※3)とは短い時間ではあっても言葉を交わしただけでなく、勇者の身代わりとなって死んでいる。さらに言えば、オルテガやオーリンのような屈強な男ではなく、少女が死んだことによってその悲劇性も印象付けられたのではないだろうか。こうしてデスピサロとの戦いは、(実感しづらい)勇者としての使命よりはむしろ、身代りとなった少女のかたき討ちによって動機づけられるわけである(※4)。
そしてドラクエ5。そこでは、パパスが主人公とともに旅をしているのみならず、半ば主人公の身代わりとなって死んでいる。彼の死は、当時の私に強烈な印象を残したが、もしこのような反応がある程度一般的であるならば、おそらくそれは死に到る過程と死の描き方が3と4を踏まえて工夫されているからだ。すなわち、3のオルテガはあまりに接する時間が短すぎたため印象に残らなかったが、パパスはまさにオープニングから長い時間主人公とともに旅していたがゆえに、プレイヤーは彼に親近感を抱くこととなる(ついでに言えば、親子二代での魔王退治という要素も3と5は共通している)。そのような状況の中、主人公を庇う形で彼は死ぬのだから、登場してすぐに死んだシンシアとは印象の定着の度合いが違う。これこそ、パパスの死が強く印象に残る理由だと考えられる。
このような3-4-5を通じての表現の変化を見るとき、かたき討ちという要素が冒険、あるいは魔王退治の動機づけとしてより意識的に盛り込まれるようになっていることが理解されるだろう(もっとも、ゲームに範囲を限定しなければ別に目新しくもないが)。これについては、ドラクエ1がお姫様を救って魔王を倒す話で、ドラクエ2もとにかく悪の神官+破壊の神を倒す話と、ともに抽象的・類型的な物語が何の疑いもなく展開していることに注意を喚起したい。要するに、初期はそのような単純な構造でもプレイヤーを楽しませることができたが、回が進むごとにそうもいかなくなり、上記のようなプレイヤーを巻き込むための演出が施されるようになったものと考えられる(ドラクエ1がバブル期の1986年、ドラクエ5がバブル期後の1992年の発売であることから、そのような変化がいわゆる「大きな物語」の凋落を反映していると人もいるかもしれないが、仮にそうだとしてもかなり短期に生じたものであるため、最初は典型的な英雄譚的なものだったのを社会情勢に合わせて徐々に変化させたと見るべきだろう。また物語の側面についてもう少し細かく言えば、例えば3はシステム面への傾倒と最後のどんでん返し[そして伝説へ…]、4はオムニバス形式を取り入れ勧善懲悪の構造そのものを揺るがすこと、5は主人公を勇者ではない存在にすることで勇者を探す旅という新たな要素を加え、さらにはそれを結婚という仕組みで解消しようとする[天空の花嫁]etc...このようにして、それぞれ以前との差別化を図ろうとしている)。あるいはもしかすると、ドラクエ6が今一つ評価が高くないのは、話が飛び飛びな印象を受けるのもさることながら、今述べた形で冒険や魔王退治の動機づけを担保できなかったことが最大の要因なのかもしれない(むしろ、夢の世界を設けることで死んだ者も存在し続けられるような構造になっているのだが、これは死が生々しく描かれる5との差別化を図ろうとした結果ではないかと考えられる)。
以上ドラクエの例で見たように、身近な者の死というものは戦いの動機づけ(=プレイヤーの巻き込み)を確保する上で非常に有効な演出である。とするなら、自分の彼女を殺される展開のゾイド2においては、主人公がそのかたき討ちとして皇帝を殺し帝国を滅ぼすという流れが自然であるように思える。でなければ、固有名詞を持った主人公の身近な人間(=彼女)を登場させた上で、敵に殺させる意味がないからだ(ちなみにだが、「意味もなく殺される」という出来事は表現の中ではしばしば重要な意味を持ちうる。また、意味を求める行為自体を挫折させるというのも演出の一つとして存在する)。しかし実際には、主人公は敵を滅ぼすどころか、むしろ停戦の架け橋となっている。これは一体どういうことだろうか?
次回はそのことについて考えていきたい。
※1
ドラクエ2でもムーンブルクの例があるが、ローレシアの王子の視点でプレイしていると思われるプレイヤーにとってそれがどれほど印象に残ったか非常に疑わしい。
※2
それはドラクエ1的な使命の領域を出ない。つまり、単に「そういうことになっているからそうする」だけなのだ。ちなみに、ファミコン版で言えば、二人の身代りになったオーリンの死の方がよほどプレイヤーの印象に残ったのではないか?
※3
性別に関する描写はなかったと記憶しているが、ロザリーとのアナロジーが明らかなのでこう表現しておくwえ、ロザリーも「女」とはどこにも書いてないって。ククク、確かに。「女」を連想する名前とビジュアルにはなっているけど、別に半陰陽でもいいわけだし。あるいはデスピサロ×ロザリー(=男の娘)というのもなかなかオイシイ組み合わせとはイエマイカ?てゆうかデスピサロ×勇者(男)ってやおい本絶対ありそうだよなあwそれに勇者は女の場合もあるわけだから、シンシアが男だとしても問題にはならないんだよね。いや待てよ、そもそも二人ともモシャス使えるんだからより様々なシチュエーションを(以下妄想言語が甚だしく翻訳不能)。
※4
もっとも、小3だか小4で初めてプレイした時、村が襲われるシーンで自分の無力さにやり場のない怒りを感じることはあったが、敵への恨みを意識することはほとんどなかったように思える。ところで、本文で述べたかたき討ちの構造はロザリーとの邂逅およびその死によって崩れ始める。周知のように、その原因はルビーの涙をほしがる人間に殺されたことにあるが、きちんと読めばわかるように、勇者たちが(ロザリーを守る)ピサロナイトを倒したことが結果的に引き金となったのだ(よりよくあろうとすることが、かえって大きな悲劇を生む…)。そしてデスピサロはその復讐のため人間を滅ぼすことを固く決意し、進化の秘宝に手をつける…こう見てくると、勇者(プレイヤー)もデスピサロもかたき討ちという動機づけが(全てではないにせよ)強く関係していることがわかる。しかも、同じくエルフの少女を媒介にして、方や天空人(≠人間)、方や魔族とくれば…製作者側がアナロジーを強く意識していたことは明白である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます