結婚式で帰省した際に友人へundertaleを勧めたら、さっそくTrue Endまでクリアしかつ素晴らしい内容だったとのこと。
そのついでにここではまたundertale関連の話を小出しにしておこうと思う。この夏にPS4版などが発売される予定なので、今回もまたネタバレなしの方針でいきたい。
前の記事ではゲーム途中でまだ1/3残っていると書いたが、今まさにその部分をプレイしている所である。途中のある強敵で何回かヌッ殺されたことと仕事の忙しさで今進行が止まっているが、そろそろまた再開しようとしている次第。さてその1/3とはプレイしたことがある人なら誰でも知っている「あのルート」なのだが、True Endを見た後で端的に言えばそれを破壊するような内容(突っ込んでいってしまえば「その後味の悪さで改めて不殺の重要性を認識させる狙い」)を予測をしていた。
しかし、それよりもむしろ、他のキャラとの話が噛み合わないことによるcleepyさ(それはまさにクリーピーの映画が感じさせる隣人のそこはかとない異様さに近い)を感じさせるセリフの数々を散りばめることで異常性を演出するのは単純に感心した(それまで味方だった存在と単純に敵対するために言動・対応が変わるといったような、チープな変化ではない)。
また前述のルートに入るための条件を満たすのはそれなりに手間なのだが、それにも拘わらずやり遂げるのはDETERMINATIONの強さとも言えるし、またそれが強すぎるがゆえの異常性とも言えよう(ちなみにこの「作業」をやっていてまさしく「レベル上げ」という行為を連想した人は少なくないだろう)。ともあれDETERMINATIONの二面性(何についての決意か)をきちんと感じさせる造りになっているのは好感が持てる部分だ。
ついでにこの二面性に関して言うと、このルートによって登場人物が立体的に見えてくることも面白い。例えば(詳しくは記事の性質上伏せるが)、ある人物(ボス)の変わらなさと、その後に出てくる人物(ボス)のまさしく英雄的側面の描写が特筆される。前者は、主人公の異常性と「まともに」接しようとする彼の姿が好対照をなしているとともに、彼の性質というものが強く印象付けられる。また後者は、通常ルートにおいてはやや道化的な描かれ方をしているのだが、ここにおいてその拠って立つ基盤の確かさが強く印象付けられるとともに、彼女が周囲から信頼されるのも必然的なことだと理解できるようになる。また、この二人は元々深い関係性と対照性が通常のルートでも描かれているのだが、ここでもその巧みな描き分け(変わるものと変わらないもの)が光っており、その意味で人物描写の妙として評価できる。それだけでなく、この落差は前者との戦闘で肩透かしを食った(面倒なだけで別に難しくなくね、と思った?)プレイヤーが、その次に出てきたボスのガチっぷり(チート的なラスボスを除けば、これまで対戦したどのボスよりも強い)へ驚くのに繋がるという点で、ゲームとしての演出(起伏)という意味でも優れていると思う。
さらに二面性(or多面性)の話を詰めると、不殺をどのように位置づけるかという話にもなってくる。正直最初は、「不殺という理想はあるが、それを悪意とは言わないまでも、ゲームプレイヤーとしての、あるいはエンディングコレクター(?)としての気軽さで破壊もできる」という描き方をしている可能性が高いと見積もっていたが、今のルートを途中までプレイする限り、どうもそれは私の過小評価だったようだ。作者はそれもまた人間(あるいは生物)の当然の可能性として考慮に入れた上で、それでも不殺という道がありえるのかどうかという描き方をしているように見える(これはラストバトルの前で「審判」を下すあの人物の言葉の変化が象徴的だろう。もっと突っ込むと、Torielのノーマルエンドにおける扱いの変化が製作者のそれなりにシビアな現実認識をよく表しているように見受けられるが、それは別稿に託したい)。
この部分は高く評価できると私は考える。それはなぜか。そもそも、人間自体が慈悲・承認要求・侮蔑・競争心・忌避など様々な面を持った存在であることは言うまでもない。また歴史を見れば明らかなように、(その多様性が集合体となれば当然のことだが)人はコンフリクトとは無縁ではいられない。それを厭う気持ちは理解できるが、その結果ノイズの排除された繭の中を理想視してみたところで、そこで培われたことは一たび外界と接したならば容易に独善性へと陥るし、またその空間の中でも同調圧力と偽善が蔓延するのは自明である。では「他者」と向き合ったとして、そこには融和の可能性も闘争の可能性も不干渉の可能性もある。話し合いさえすれば問題は解決する(=わかりあえることが前提)というのは妄想である(わかりあえないことからスタートし、それでも共生の可能性を探って交渉するというのならわかるが)。だからそもそも、人間の本来性を融和に置くのも欺瞞である(ちなみに「人間は社会的動物である」というテーゼがあるが、私はそれが人工知能の発達によってどのような変容を被るかに大いに興味がある。前にundertaleの記事で「人間の條件」というテーマに言及したのはそれに関連する)。そのような見地に立った時、この作品はそういうナイーブさを十分に意識し、それと適度に距離を置いている印象を受けるがゆえに評価できる、ということである。
この二面性(多面性)の描写が評価できる理由はもう一つある。そもそも融和という行動しか存在しないのなら、それは善悪の彼岸にあるということだ(「失楽園」のルシファ側と天使側の対比を思い出してみるのも有効だろう。そもそも悪を成すことすらできない存在というのは、もはや人間と呼べるのだろうか?)。例えば、人間が飲食をすることについて善だの悪だの言う人はいない。その理由は、「それ以外に選択肢がない」からだ(ちなみに近年は認知科学の進歩によって、我々が動物と人間を分かつ要点と考えがちな「主体性」すらも後付けに過ぎないことがわかってきている。言い換えれば人間の「動物性」が明らかになってきているということだが、さしあたり「沙耶の唄」を参照)。あるいはたとえば蚊という存在について考えてみると、血を吸うは疫病を媒介するはで忌み嫌われているが、蚊にとってはそれが生存に必要な活動であって、そこに善も悪もない(人間にとってはそれが迷惑だから忌避もするし排除もするわけだが)。
つまりはundertaleが融和のみを、あるいは融和こそが本来性であるように描いていたならば、それはwell-madeな、しかしただのノイズを排除したゲームが出来上がっていたことだろう。だがこの作品は、虐殺についてもまたきちんと力を入れて描写し、その結果として、そういう可能性があるにもかかわらず人と融和・共生するという選択をstruggleの上に模索した主人公(プレイヤー)を称揚するという描き方になっている。そのために虐殺の道は、単にゲーム上の付け足しなどでは全くなく、この作品に立体的な深みを与える極めてessentialな要素であると述べてこの稿を終えたい。
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