昨日掲載したundertaleの記事では他者との共生(と自由意思の問題)を取り上げたが、 以下で書こうとしたのも同じである。最初の「『共感』、癒着、合意不可能性」は確か「椿談義:企業、研修、『国民性』」に続けて書こうとしたものであったはず。要は(これもつい先日書いた)「心の習慣と合理的適応」の話や組織の硬直性、あるいはそれを「わかりあい」で何とかクリアしようとするのが端的に間違っているという話である(→機能主義・associationの重要性)。そこから後者の「必要とされるのは~」という記事になるわけだが、これは統治論や外交の基本としてどうコントロールするのかという戦略的視点が絶対に必要であると書こうとした、というもの(ちなみにこれは貧困の救済の必要性ともつながる)。まあ「下手糞外交地獄逝」という最初期の頃と言ってることは変わりませんな・・・という意味で自身の進歩のなさを実感するところである(´・ω・`)
<Interlude:「共感」、癒着、合意不可能性>
思っていることをそのまま言えばプラスになるわけではない。
というわけで、賢明なる読者諸兄はすでにお気づきのことと思うが、「」で という話を書いたのは、見られ方としてはマイナスが大きいと言える。たとえば(1)自分はこれだけ考えているのだと自慢したがっている、だとか(2)上から目線で鼻持ちならない、(3)腹黒くて信用ならない、といった具合。ここからさらに、別段計算していないものも何かしら「裏」があると見られる=痛くない腹まで探られるという波及効果までついてくる(まあこれは適当なものも何か計算がありそうに見える、という点ではプラスにあることもあるのだけど)。またそうだと思われると、仮に だとしても と捉えてもらえなくなる(効果が薄まる)そのような帰結を見据えるなら、また「見られ方が大事」と言うのなら、「」のような話を書く事自体がパフォーマティブに矛盾している、というのもまた事実なのである(筆者注:それを表面化すること自体が期待外の反応をもたらす=内容との矛盾を生じさせるために、あえて何も言わない・書かないというのは実際よくあることだ・・・と言いたいが、これだけ社会に「炎上」という現象が多いと、そういうフィルターが各自ちゃんと機能してるのかしらんと思えてくる)。
まあそれはともかく、齟齬の事例は(1)ノーマライゼーション、(2)郷に入らば郷に従え的環境に合わせた合理的振る舞い、そして(3)合意不可能性
(1)(2)の話はすでに触れたので、今回は(3)に関して。本来これは「沙耶の唄」という作品に絡めて話そうと思っているのだが、一部だけ。
前回の話。境界線の曖昧さ。一歩間違うと「どうせよそ者にはわかんねーよ」的な排外主義。それが「共感」を喧伝する危険性・・・分かり合いでなんとかなる。思いやりでなんとかなる。それは妄想にすぎない
<必要とされるのは、「優しさ」でもなければ「断固たる態度」でもない>
「戦争反対を叫ぶ人へ」で批判したこと(筆者注:読めばわかることだが、リンク先の題名を間違えている)。効果がないからだ。叫べば無くなるなら苦労はしない(「祈り」によっては解決しない)。
これに対して「テロを許さない」として断固潰す。先の例とは対照的であるように見えるかもしれない。
しかし、テロを潰さんとする行動がかえって怨念の連鎖を生み出すという逆説。
私はテロリストにも考慮すべき背景があるとか、倫理的によくないとか言っているのではない。
端的に言って効果がないのなら、そういう手段は取るべきではないと言っているのである(とはいえ厄介なのはパブリックディプロマシーの問題→筆者注:ちなみにこの件は先のundertaleで触れたTorielの扱いとも関係する)
アッシリア帝国とアケメネス朝ペルシア。前者が統一から短期間で崩壊し、後者が長く続いた要因。
それはアケメネス朝の寛容な統治によるところが大きいが、このことはアッシリア帝国の支配者よりアケメネス朝の支配者の方が「優しかった」からではない。寛容な統治の方が効果的であったからそれを採用した。秦と前漢のシステムの対照性。
アメリカが日本を したのはアメリカが「優しかった」からではない。対共産圏の防波堤として利用価値があったからだ。またその統治方法として天皇の利用、情報統制、「国家神道」を除く宗教の放置(キリスト教を広めようとする案はあったらしい。もしそうなら第二のフィリピンになっていた可能性は?戦後キリスト教が広まった韓国)・・・
テロを根絶はできないにしてもどのように縮減していくのか。
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