チキンホークと思考停止リベラルの輪舞

2019-01-12 12:05:49 | 日記

「罪と罰」の話は書いたし、旅行の話も書いた。なんで次は別の旅行記事に戻ろうと思っていたが、ちょっとありきたりな展開なので、中間的なものを挟んでおこうと思う。

 

一週間ほど前に「沖縄complex」という記事を書いた。内容としては、『はじめての沖縄』に書かれた「わかりやすく沖縄にレッテル貼りして語ってんじゃねーよ」というメッセージを元に思ったことを記述したわけだが、もしかするとそれがわかりにくいと思われた方がいるかもしれんので、的確な動画を紹介しておこうと思う。

 

 

宮台真司の語りはマル劇トークオンデマンドだとしばしば自分のフィールドに引き付けている感が強く、どうもゲストの言葉の流れを中断しているというか、悪く言えば我田引水の印象すら受けることもある。しかし今回の国防に関する語りは、前からよく引き合いに出している吉田―白洲のアメリカに対する戦略的振る舞い、亜細亜主義、損得勘定を軸に動くか良心(virtue)を軸に動くか、ウェーバー的政治家論、ミメーシス、言葉の自動機械、ウヨブタ、クソフェミ・・・といったタームが出てきつつも、それが国防や対外的な戦略的振る舞い(両者は分かちがたく結びついているのだが)において、どのような意味合いを持つのかを非常に説得的に語っていたように感じられた。

 

たとえば道徳を成績評価に入れようなどという「愛国者」たちの頓珍漢な行動の指摘は重要だし、あるいは「護憲左翼」が実は沖縄の犠牲の上に成り立っていることを認識しない愚か者どもであるという話など、これまた図式的に考えている(=その実レッテル貼りして思考停止している)状態を打破するには有効な語りだろう。

 

前者は、「ヨブ記」で問題にされているようなこととも繋がり、要は救われたいから・利益を得たいから覚えめでたくなるように振る舞うだけ、という損得勘定の権化を産み出す結果にしかならない(=内発性とは全く関係がない)。よって愛国とは何の関係もない(まあ教育というものは大なり小なり洗脳なので、政府の言う事を聞くのが「愛国」と思うなら、そういう風に都合よく洗脳するのを「愛国」と強弁できなくはないが)。また後者は、現状がどのようなレジームから成り立っているのかも理解せず、実はただ日常と言う名の自明性にしがみついているだけであることを示している(これは私がよく批判しているエセ保守と同じだ。ちなみにそんなんだから、たとえば永世中立国スイスにも軍隊がいるといった現実からは目を逸らしたがる。なお、このことは「愛しのアイリーン」が突き付けるものともつながる)。要するに、戦後70年も経ったが、相変わらず簑田胸喜的振る舞いをする連中が、「自分は右で愛国者だ」、「自分は左で平和主義者だ」と、外の世界を見ずに日本という名の箱庭の中でクソを投げ合っている状況なのである。

 

とまああれこれ書いてみましたよと。正直今回の動画は見ればわかると思うので、ちょっと屋上屋を重ねてしまったような気がするが・・・ちなみに宮台の挑発的な物言いが聞くに堪えないと思うのなら、次の伊勢崎賢治のインタビューを見てみるとよい。

 

 

ここで述べられているようなアメリカの変化(冷戦終結による互恵性の重視や許可制の件など)を考えずに、今の日米関係を絶対化して(=アメリカ従属しか道がないと)語るのはまさしく思考停止の最たるものだし、その状態を「ポチ」・「ケツ舐め」とでも喩えないなら、一体何に喩えるのが適切かって話である(ちなみに、戦闘状態における自衛隊の法的問題に関する指摘は井上達夫などもしている)。

 

総じて言えば、外の世界を見ると驚くべきことが日本では平気でまかり通っている。これは日本人の無宗教とそれについての論説を見ていてもしばしば感じることで、島国根性の一つとみなすことができるかもしれない。その認識の正否はともかく、アメリカ追従を前提にした思考停止で何とかなってきた時代はとっくのとうに終わりを告げているのであって、これからを生き抜くにはまず「賢明さ」が必要不可欠ではないかと二人のインタビューを聞いて思うことだ(要するに、何かにしがみついてこうってんじゃなくて、是々非々でいくしかねーっス、という話)。もう少し詳しく言えば、それはゲーム理論的に相手の動きを理解・予想・コントロールするcleverさであり、そして先人の叡智や失敗に学び今の状況と掛け合わせながら判断するwisdomの二つである。

 

え?宮台のいう内発性じゃないのかって??
宮台がどういう意図で発言しているかはともかく、私は多数の人が損得勘定によらない内発性に基づいた贈与・自己犠牲によってドライブされるとは全く思わない。なるほど創作の中では、自己犠牲がしばしば感動的なシーンとして描かれる(これは少し前に紹介した、「シュガーラッシュ」でも同じである)。しかしそれは、むしろ一般的ではない=超越的であるがゆえに、受け手にミメーシスを生じさせるからではないか。だとすれば、それはある種の不可能性に裏打ちされた評価であり、それを人格陶冶の根本思想に持ってくるのは、土台無茶と言うものだろう。まあ宮台は、以前に自身が大乗仏教的志向をしない旨明言しており、実際そう考えながら発言してるんだろうけども。ただ、もし「エリートに向けて言ってる」みたいなことを強調したら、乗ってくる奴らは他人を見下してるだけの思いあがったクソ連中ばかりということが想定されるため、そこは前面に出さないのだろう。

 

とはいえ、戦略的コミュニケーションを身に着けることは、習慣づけで比較的容易にできるものであろう(何せものぐさ三年寝太郎級のだらしない私でさえ、何とか10年以上サラリーマンをやれてるくらいなんだからw)。早い話、相手は「自分を理解してほしいように理解してほしい」だけだし、こっちの言ってることが飲み込めればそれでいいので、その枠を浸食しないように受け答えすればいいだけである(だから私とかは相手が褒めてほしい要素がわかってる場合、喜んで褒めにいったりする。だってそれほど楽なことはないんだから。ちなみにこう言うと自己の利益誘導のためにやってるサイコパスっぽい感じに聞こえるかもしれんが、私は基本スタンスとして面倒くさくなければどーでもいーので、相手が上機嫌になってwin-winな感じになれば、それ以上何かを求めることはない)。

 

まあそういうわけで、内発性云々を体得できる人間なんてのは極小も極小と考えるべきで、ゆえにまずはゲーム理論的なものが理解・実践できる(=ナイーブでない)人間をそれなりの数増やして、後はその中から内発性に満ち溢れた人間を養成する、というのが現実的ではなかろうかと思ったりする。まあただ、私はそのようなアップデートに日本社会が間に合うとも思ってないので、大勢の人間はマトリックス的なカプセルである程度のところまで問題を起こさず適当に生きていただいて(ちなみにこれを「畜群」と言い換えることもできる)、あとはまあ少数の人間が何とかするしかないかもねーと考えていたりするのだが(『ホモ・デウス』で描かれたような不老に近いことが技術的に達成されたとして、それを使えるのは金銭的にも地球の維持という観点でもごくごく一握りであろう。となれば、それが利用できない層の憤懣は、日々の悦楽と安寧に満ちた死によってあがなう他あるまい)。

 

Um allein zu leben, muss man ein Thier oder ein Gott sein-sagt Aristoteles. Fehlt der dritte Fall: man muss Beides sein-Phillosoph.

 

と書いたのはニーチェだが、まあこれからAIの発達でケモリング=ルネサンス(別名:中世の復活w)が起こり、近代市民社会は溶解していくのではないかと思ったりするムッカーである。

 

・・・あれ??何か複雑性が重要だという話をしようとしながら、結局大多数は複雑性に向き合えずに獣となってこの世界は終わっていくみたいな、いつもの話をしてんぞwwwこれじゃあ人に我田引水なんて言ってられんよな・・・

 

じゃあ最後にこんな引用でもして終わろうかね。

「強すぎる力は必ずやその身を亡ぼす」

「あなた方人間はそうですがね。しかしもうすぐ、その愚かな歴史も終わるでしょう。こういう言葉を知っていますか?『世界は人類なしに始まった。そして人類なしに終わるであろう』」

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