戦争という名のファシズムから平和という名のファシズムへ

2019-06-13 12:32:52 | 歴史系

 

先日、皇室の話に関連して「統帥権の侵犯」が(政治)利用されたことに触れたが、その際にリンクを貼ったのが冒頭の動画である。

 

動画の内容を端的に言えば、保守というのは、理性の限界=人間の必謬性を設定することに基づく「漸進主義」のことであり、過去に理想を見出すことでもなければ、現状に固執することでもない、という話(人間は常に間違えることを前提にするなら、過去にも現状にもベストな状態などありえず、つまり理想として固定化することもできない)。

 

そして、ここが重要なのだが、以上の観点から、戦前の革新派官僚や蹶起した青年将校たち、あるいは急速な拡大に基づいた「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」という発想・行動は「大東亜戦争」とともに保守の立場からは支持しえない・・・ということが田中美知太郎や池島信平といった戦中派の人たちの文章に基づきつつ語られる(ちなみに、北一輝の話も出てくるが、彼が学んだのは社会進化論や社会主義思想であり、目指したのは「天皇つきの社会主義国家」とでもいうべきものだった。ここからも、「右翼=保守、左翼=革新」といったレッテルがおかしいことがわかる)。あるいは、山本七平の文章か旧日本軍のあり方と戦後の日本赤軍は現実から遊離した精神主義という点で同列に語られている。

 

という感じで一つ一つ付言していくのも煩雑なので、重要な点に絞って述べておくならば、敗戦を通じて「昔ながらのもの=保守/右翼=悪、新しいもの=革新/左翼=善」という認識が広がったが、そのような二項対立図式は様々な点で誤っており、たとえば左のグループ(実際にはレッテル貼り)から右のグループ(同左)に移行することが正しいなどというのは、勝ち馬に乗じる(長いものに巻かれる・「空気」に流される)という点で同じメンタリティでしかない。そして、そのメンタリティこそが問題の本質であったのに、中身を変えれば問題が解決したなどと思い込んで今に到る、というわけである。これはPCで言うなら、OSにこそ問題があるのに、アプリを変えれば解決すると勘違いするようなものだ。こうして今も、ただ騒ぎ立てただけの改元、チケット購入法すらお粗末なオリンピックという具合に祭りの構造は温存されたままで、今日本は二度目のデッドエンドへと緩やかに向かっているというわけだ。

 

さて、以上のように問題提起として非常に興味深い内容なのだが、注意しておくべき点が一つあるように思う。それは、「なぜ保守という言葉の定義が重要なのか」というマインドセットをどう共有するかである(でないと、「学者が言葉の定義についてキーキー言ってるだけ」とか「日本は日本独自の文脈があるんだから海外の定義を当てはめるな」といった表層的な批判に押し流される可能性が高い)。時間の制約もあるだろうが、この点中島の話には出てこないので、次の動画をご紹介しておきたい。

 

 

 

ここで宮台は「言葉の自動機械」という言葉を使っているが、これはまさに、冒頭の中島が批判的に言及している空疎な「国体」論、あるいは戦後の「護憲」、右翼と左翼のレッテルの張り合いと不毛な党派的議論などに繋がるものである(ちなみに中島の動画に出てくる「勝ち馬に乗る」は、三島の「一番病」として言及されている)。要するに、言葉の成り立ちを正しく定義・共有しなければ、最終的に自分(たち)は妄想による教条主義、相手にはレッテル貼りの批判(というか罵倒)をぶつける他なくなってしまう。それをどうやって避けるか、というのが先の大戦の失敗と反省ではなかったのか。

 

このような見地に立てば、言葉の背景と定義は出発点として極めて重要であり、ゆえに質問者の発言者にもあったような「何となくイメージと違う」などではなく、その差異の理由も含めて真摯に向き合う必要がある・・・という前提をそもそも構築しなければならないと思った次第である。

 

【補足】

もちろん、「国体」云々の話は明治憲法と天皇制の問題にも由来するし(分権構造の空白を埋める元老がいなくなって機能不全etc...)、言葉の定義の話はそもそも明治期における大量の借用語・造語の問題にも関わってくる。このように背景を掘り下げることはできるが、まずスタートラインとして「なぜ定義と共有が必要であるか」が重要、という話。


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