へえ、松竹の「226」って期間限定でフル視聴できるようになってるんやな。てか「2/26まで」ならともかく、何で2/20までなんやろなあ…って突っ込みはさておき。
映画として見ると、前提をざっくり説明した後は怒涛の襲撃を描き、そこからは群像劇という展開なわけだが、そのやり取りが、三浦友和や竹中直人、佐野四郎といった当時の若手たちがそれぞれの仕方で狂気も孕んだ情念を上手く演じていて、見ごたえがあった(もちろん丹波哲郎のうさん臭さは真崎の狸っぷりを思わせるし、彼らを一喝するチョイ役での出演でも仲代達也は存在感あるなあといった具合に、脇を固める人たちの名演も光っている)。特に三浦演じる安藤は、最初こそ計画に逡巡するシーンと、一度計画を始めたから途中で止めるなどありえない、という最後まで粘るシーンの無精ひげに狂気を孕んだ目のコントラストが印象的で、結末はわかっている事件なのに魅せるなあと感じた次第。
まあそれだけに、五社英雄っぽさなのか、襲撃シーンでの銃撃戦は良く言えばけれん味たっぷりの、悪く言えば大げさな演技が安っぽく見えて、どうもアンバランスだなという印象も受けたが(まあ高橋是清は史実なら就寝中にいきなり布団剥されて銃撃・刺突されて無残な殺害をされているのだが、この映画では見栄を切って華々しく散ったように描かれているので、少なくとも死に関する演出意図は働いているのだろう)。
ちなみに、「二百三高地」や「八甲田山」などと同様に、今回の作品も(これを契機として)実際の歴史の流れを知り、それがどのように切り取られているかを認識しておかないと、色々なミスリーディングを生んでしまう危険性がある(例えば前者については、長南政義『ニ〇三高知』などを読むと実態がわかりやすい)。実際、フル動画の方のコメント欄は群像劇の方に引きずられて現在の政治不満へと直結させ、この事件の背景や影響についてまともに触れていないものが散見されるので、今回はそこを取り上げておきたい。
当時(1989)と違い、今は無料でわかりやすく説明してくれる動画もたくさんあり(もちろん有名な事件だけに数が多いのでクオリティには要注意だが)、たとえば上記の動画を見ると事件に到る流れ(派閥争いなど含む)は整理できるだろう。
この動画で説明されていない点で言うと、例えば北一輝の思想(日本改造法案大綱)の影響を外すわけにはいかない(他にも陸軍に強い影響力を持った平泉澄や皇族の秩父宮の動きなど様々な考慮すべき点があるが、ここでは割愛する)。これは単に青年将校たちがその影響を受けたということに止まらず、野中・磯部と安藤の違いなどにも繋がってくる。というのも、前二者はまさしく北の思想に触発された人物で、ゆえに天皇を推し抱いて農本主義的(これが農村復興と結びつく)、あるいは民族社会主義的な国家変革を目指した訳だが、天皇というのはそのような体制を造るための「駒」の一つであり、極論すればそれは交換可能な存在である。つまり、あくまで社会変革のためのツールとしての天皇とその聖断、という道具主義的な理解をしているため、ゆえに処刑の日を待つ獄中においては、自分たちを処断した天皇のことを文面で痛罵さえするのである。
逆に安藤は天皇主義者であり、つまりは天皇そのものに心酔する立場であった。だから(「君側の奸」を排除するためとはいえ)天皇に弓を引くことにためらいがあったし、そこに部下たちを巻き込むことにも躊躇していた(実際はもっとかなり複雑な経緯があるが、そのあたりは割愛する)。
こういった点を踏まえて本作における三者の行動の違いを再度観察してもおもしろいかもしれない。すなわち、現体制において天皇から明確に拒絶された時点で、主知主義(制度設計主義)に基づいて社会を変革しようとする野中や磯部にとっては、その計画の「合理性」の破綻が確定するがゆえに、意気消沈せざるをえない(だから考えうる上での善後策として法廷闘争に持ち込もうとする。まあ仮に計画が成功していたとしても、その後の案がガバガバなのは、五・一五事件と同類の青年将校クオリティと言わざるをえないが…)。
しかし、安藤にとっては自らが崇拝する天皇を輔弼する重臣たちを多数殺害した時点で、もはや後戻りなどという選択肢はない。主意主義者の安藤にとっては、野中や磯部の計画・行動を「粋」に感じてそこに身を投じた以上、そしてその重大事案に部下を巻き込んだ以上、もはや事は計画の合理性や実現可能性の埒外なのである。だから、戦略的敗北を悟った後でも、彼が最後まで粘る。なぜなら、まさに劇中三浦扮する安藤が詰め寄って言うように、「これで止めるくらいなら始めからやるな」という話だからだ。
まあこのニ・二六の中心人物たちの思想的齟齬は、1980年代半ばに筒井清忠が分析・発表したのが嚆矢だったはずで、それを意識的にこの映画の演出に取り込んだとまでは考えづらい。さりながら、そのような背景を知った上で彼らの行動の表出の違いを見ていくと、また違った印象を受けることだろう。
なお、前述した「生き延びて法廷で証言する」という話は、彼らが秘密裁判で銃殺されたことは今日の我々には広く知られているだけに、作中では悲壮感漂う精一杯の強がりのように描かれている。しかしこれも、実態としては状況がいささか異なる。というのも、犬養毅を殺害し、他にも多数の傷害や器物破損を伴った五・一五事件は、しかしそれにもかかわらず、助命嘆願によって誰一人死刑とはならなかった(詳細は小山俊樹『五・一五事件』などを参照。これだけの事件を起こして数年で刑期を終えるなど、今の視点からすると信じがたいことだが…なお、軍属の者と一般人には求刑に大きな開きがあり、助命嘆願における軍側の策動も含めて、単に民衆側の動きが事件を矮小化してしまった、とだけ分析するのは危険である)。こういった先例があり、かつ農村の苦境を思って自分たちは立ったのだと信じて疑わなかった彼らは、似たような現象に期待していたのである。
しかし、現実はそうはならなかった。その背景は様々あるが、一つにはニ・二六の前年に永田を斬殺した相沢が裁判で軍批判や政府批判を声高に叫んだせいで、公開での裁判は同様のリスクが認知されていた。今回はその時より圧倒的に規模が大きく、さらに真崎や荒木といった皇道派の中心人物にまで話が拡大する恐れがあったため、言わば秘密裁判という形で青年将校と北らを処刑することにより「闇に葬った」ということだ。
まあ映画の作劇上、「あの時のように助かるんじゃないか」という雰囲気にすると群像劇の緊張感や悲壮感が弛緩してしまうため、わかっていてもこういった要素は盛り込めなかったものと思うが、現実にはこういった理解が投降の背景にあったことは押さえておくべきだろう。
ということでニ・二六事件の背景について、少し触れてみた。なお、私のこの事件に対する評価は「完全なる悪手」である。これは単に「テロリズムの是非」という話ではない。
例えばこの事件で暗殺された高橋是清は、世界恐慌にあえぐ日本経済を、リフレ政策でいち早く復興させた立役者である。農村経済の疲弊とそれへの怒りはわかるにしても、政治家=何でもできるスーパーマン扱いされたら(できなきゃお命頂戴)、命など幾つあっても足りないというものだ(まあこの見解でいくと、血盟団によって暗殺された井上準之助は、世界恐慌の中で金解禁を行ってまさに日本の不況を呼び込んだ張本人ということで、「殺されてもしゃあない」というロジックにもなりかねないワケだが…)。さらに言えば、この事件で殺害された渡辺錠太郎については、人事に関する誤解で殺害された、完全なとばっちりである。今述べた点だけでも、青年将校たちの罪は、国家運営という側面からも、その理解の貧弱さという点からも、極めて甚大と言わざるをえない(まあだからクーデター後の計画も杜撰なものとなるのは必然と言えようか)。
さらに言えば、二・二六により総辞職した岡田内閣の後継となった広田内閣と、そこにおける軍部大臣現役武官制の復活を想起したい。ここには軍部が政府をコントロールしたいという思惑だけでなく、皇道派が復活する可能性を断ちたいという統制派の思惑もあったが、このシステムの復活は、ご存じのように軍部のコントロール不可能性を増し、満州事変以降の「やった者勝ち」な傾向をさらに加速させたのである。こういった事後の影響面で見ても、二・二六事件を到底肯定的に評価できないのは、首肯されるところではないだろうか。
・・・以上のような事柄を考える上で、この「226」という作品を視聴するのは良いきっかけとなるだろう。
なお、なぜ今回いきなりこの作品を取り上げたのかと言うと、フジテレビ問題のような今騒がれているオールドメディアへの巨大な不信感とヘイトが政治へと矛先を変えれば、こういった事件の背景をなす精神性は容易に醸成されうると考えるからだ(正確に言うと、すでにそういう傾向はかなりの程度強くなっている印象を私は持っている。一つ一つの情報の正しさを軽んじてはならないが、それ以上に俯瞰視点で構造を分析することが重要だと繰り返し書いているのはそういう理由である)。
もちろん、少なくとも現代の日本において、二・二六がごときものは起きない(これは井上準之助や団琢磨を暗殺した血盟団事件も同様)。これはシステム的な面でも、共同体の解体という面からも言える。
しかし一方で、原敬暗殺や安田善次郎暗殺がごときものは十分起きうる。というのも、「無敵の人」とも形容される人々のローンウルフ型犯罪を今年に入ってからすでに複数件我々は知っている訳だが、それが政治家に向けられればどうなるかは、安倍晋三暗殺という実例と、それへの反応を思い起こせば十分だからだ(ちなみにこういったヘイトが社会や貧民を食い物にする大企業に向けられるとどうなるかは、先日のアメリカにおける保険会社CEO暗殺とそれへのアメリカ社会の賞賛を想起したい。これは安田善次郎暗殺や団琢磨暗殺とリンクしうる事件と言える)。
20世紀後半は先進国が福祉型国家を目指してそれが破綻・軌道修正する時期(新自由主義や「第三の道」)だったと言えるが、21世紀になってさらに格差が拡大していく中で、そもそも社会維持のコストを急増させかねない事件がこれから増えていくとしたら、その対策は人間を安価な娯楽漬けにするか(パンとサーカス)、または迂遠でも社会参加と包摂を促していくか…はてさてどうなることでしょうかね。
これから社会が分断・疲弊していくことで、さらに不安・不満が高まってその秩序はいっそう流動化していくことは避けられないと思うが、それが膨張・破裂した先に何があるかを考える上でも(繰り返すが、以前と同じことが起こるとは言っていない)、行為者たちのナイーブさを含め、この「226」は興味深い作品だと感じた次第。
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