この記事は2008年頃に旧友四人とやっていた共同ブログ用に書いたものである(まあ上手く連携が取れずすぐに閉鎖したのだがw)。元々このブログでは恋愛ADV(より正確にはエロゲー)を取り扱うことが多かったが、それがエロゲをプレイする人たちの単なる自己肯定ツールとして使われるのは意図に反する、ということで書いたものだ。
このことは、「a rough draft about the story of Mis.Ekoda」でも書いたように、「外側からただ風景として観察するのではなく、コミットするがゆえにその構造を考える」という話と深く関係しているわけだが、そのような姿勢がなければ、結局は「自分がコミットするものは肯定する=埋没」、「コミットしないものは否定する=嘲笑・排除」という思考停止とノイズ排除の姿勢を生み出すように思える(この話は高校時代の「嘲笑の淵源」で再度触れることになるだろう)。そのような二項対立的思考(停止)をキャンセルするものとして、境界線の曖昧さが刻印された「沙耶の唄」や「ヒトラー最期の12日間」、「es」、「THE WAVE」などに繰り返し言及してきたのである(これは「人間という名のエミュレーター」という記事にもつながる。また「夜と霧」をそれほど評価しない理由でもあるが、詳しくは別の機会に述べる)。
なお、今述べたような二項思考から脱することは、「合理的・理性的に振舞ってさえいれば上手くいく」というナイーブな思考から脱することも意味する(もちろんここには、「合理的」「理性的」とは何か、という問題がそもそもあるわけだが)。これはマイケル=サンデルの著作を読むのが最も理解しやすいと思うが、たとえば発展途上国がいかにして構造的貧困に陥るのかを書いたスーザン=ジョージの『なぜ世界の半分が飢えるのか』も参考になるし、また世界の理解の仕方としては「『神の罰』の合理性」といった視点に合わせてカール=ポパーを読んでみるのもおもしろいだろう。
もっとも、このようなアプローチはなかなか難しいものがある。というのは、単なる「埋没のエクスキューズ」とみなされ、アイロニカルに無害化・処理される危険性が少なくないからだ(受け取られ方・見られ方の問題→「説明不在要因説明其矛盾的態度?」)。ただ、「江古田ちゃん~『猛禽』と適応~」や「同~『萌え』、無害化、ノイズ排除~」を書いたこのタイミングなら「ゲーム世界に埋没してはいない、と言い訳したいだけなんじゃないw?」という類のミスリード・無害化は避けやすいと考え、今ここに掲載する次第だ(「文脈活用のススメ」)。
なお、以下で言わんとしているのは、恋愛ADVの主人公がえてして相手の恋愛感情に鈍感なのは、行為や言動のズレを上から目線で突っ込みつつ、しかし自分からアプローチをするわけでもないので拒絶の心配がない上、気づかない主人公に相手が右往左往する様にプレイヤーが密かな優越感すら抱ける構造、つまり臆病で屈折した自意識と願望(その極端な例がコレ)が投影されているのではないか、ということである。もちろん、積極的にアプローチしていくelfの「同級生」の主人公やアリスソフトのランスなど、前述の特徴が当てはまらない人物もおり、時間的な変化も含めて考慮に入れる必要がある。また、上記のような構造は、鬼畜ゲーム―劣等感を持った存在が様々な方法でヒロインを堕とし、暴力的に欲望を満たす仕組み―と対をなしていることにも注意すべきだろう(なお、そのような主人公あり方をベタに受け取るプレイヤーばかりでなく、むしろネタとして楽しむ人の方が多いのではないか、という反論もあろう。なるほど確かに、少なくともエロゲーに関するレビューを見る限り、その意見はある程度正しい。とはいえ、「君が望む永遠」の主人公に対する反応は、プレイヤーが主人公の特徴に対してベタであれネタであれ、結局は恋愛ADVという枠組みに埋没した「同じ穴のムジナ」にすぎないことを示しているのだが(→「鳴海孝之への反感とキャラへの埋没」・「ヘタレ・凡庸・埋没」参照)。
閑話休題。今述べた視点が正しいとすれば、ことは恋愛ADVに収まらない。というのも、そのような「安全で自分を脅かさない構造・対象」の描写は、前述の「江古田ちゃん」で話した「萌え」の特徴と非常に近いものであると言えるからだ。そのような意味合いで読んでもらえればと思う。
[原文]
恋愛ADVの主人公というものは、どういうわけかヒロインたちからの好意に鈍感なことが非常に多いように思える。
さて問題は、そのようなキャラがなぜエロゲーの主人公に好まれるのかということだ。あくまでエロに重点を置くなら、そして色々なキャラに手を出す必然性を与えるのなら、むしろ多少がっつきすぎのキャラの方が向いているのに。ここで以前書いた「勇気が欲しい→ヤる=短絡的」という図式を思い浮かべると、これも同じくがっついている印象をプレイヤーに与えないようにする狙いがあるのかもしれない。いやもっと突っ込めば、相手はやきもきする一方で自分は何も感じない状態のわけだから、プレイヤーの優越感を喚起する効果を狙っているのかもしれない。またこちらからアプローチをかけて相手の気持ちを変えていくのではなく、相手の明らかな好意の上に話が展開していくわけだから、自信や積極性がなくても快適にプレイできるという効果もあるだろう(要するに、自信や積極性のない人間にとって「感情移入」しやすいだとか共感できるとかいったことである)。そして最後に、エロゲーだからと言ってあまりにそちらを意識しすぎると、プレイヤーの側が冷める、という側面もあるだろう(シナリオやキャラ設定などの意味が薄れてしまい、後述の「抜きゲー」に近くなる)。
さて、この見解に対しては一つの疑問と一つの反論が想定されるが、まずは疑問の方から処理していこう。エロゲーに都合がよさそうな「がっつく主人公」の出てくるゲームは少ないのか?答えは簡単で、数多く存在している。例えば臭作などを思い浮べてみよう。これは嫌われ者の汚らしいオヤジが女子寮の子たちに追込みをかけていく話だが、言い換えれば、相手の好意など必要とせず自分がひたすらがっついていく内容になっている。このようなゲームは「鬼畜ゲー」と呼ばれるが、これと「抜きゲー」(前述の「主人公の鈍感なゲーム」と「鬼畜ゲー」の中間項をなす)はほとんどの場合主人公ががっつくタイプのエロゲーであると言ってよい(鬼畜王ランスなどもその一例)。
さて、次に反論の方だが、こっちはちょいと面倒である。主人公が鈍感である理由はプレイヤーに優越感を与える、つまりプレイヤーにとってメリットがあるからだが、いくつかのレビューを見る限りにおいて、実際には鈍感な主人公というものに否定的な反応を示すユーザーは少なからずいるようだ。にもかかわらず、そういう主人公は後を絶たない。そこには二つの可能性が考えられる。
1.
ユーザーのアンケートなどにおいては、がっつかない主人公の方が受けがいい。
(=ユーザーのニーズ)
2.
物語上・演出上の必要性
(=製作者の側の都合)
1については、売れ筋と言われている「世界系」のゲームにおいて、がっつくタイプの主人公がそぐわないといった理由も考えられる(物語に重点が置かれるのでエロに向かいやすい要素は邪魔)。まあ大きく言えば、主人公を鈍感にした方が売れる、ということである(そういうキャラへのニーズか、そういうキャラが好まれる内容へのニーズか、という違いはあるにしても)。なお、「泣きゲー」についても同じことが言える。
2については正直考えがまとまっていない。まあ前述したようにがっついていると途中展開が破綻してしまう恐れがあるから、それを回避するために主人公をある程度鈍感にして少しづつ関係を深めていかせるという狙いかもしれない。あとは、どろどろの駆け引きは描くのが面倒くさいので(君が望む永遠の膨大な心理描写を思い浮かべてほしい)、ヒロインたちが勝手に動いてくれる方が楽であり、ゆえに主人公を鈍感なキャラにする、という可能性も考えられる。
とまあいくつかの可能性を提示したが、おそらくは駆け引きを描くのが面倒であり、かつ売れ筋のゲームにはがっつく主人公はそぐわないというのが一番大きな要因だと俺は推測している。これについては機会があればもう少しほり下げて考えてみたいものである。
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