前回ののり夫&ゴスロリ女ネタに引き続きふたなり・ショタの話を多く含むが、それ以外にも黒ギャル(褐色)ネタなどに言及している。この辺りについては小田原に行った話と連動していずれ詳しく述べたいと思う。なお、最後の<「属性」について書く理由>は、黒ギャル好きやショートカット好き、メガネ好きなどについて具体的事例を積み上げたり起源に遡ったりするのは
1:探究する行為自体がおもしろい
2:内容(中身)がネタになる
3:そのようなアプローチ(枠組み)がネタになる
という三つの意味(可能性)がある…というお話。このあたりは、フラグメント79で書いた「突っ込みという行為はあたかも上から見下ろしているような印象を自他ともに受けるのだけど、実はそれってあるべき基準からのズレを指摘している(だけな)のだ」という部分とも繋がる(あるいは「宗教と思索」で触れた「告解」も似たような話)。それが拠って立つ枠組み(前提)に無自覚なままネタ(という婉曲的な形)としてしか表現できないのなら、それもまた一種の閉塞にすぎないのである。まあ婉曲が好まれる社会においては、そのような表現、あるいはコミュニケーション方法が中身を失って単なるスタイルになってもなお温存されるのは必然的な事なのかもしれない(実際には同じ穴のムジナでもネタにした方が頭が良さそうに見える)。
まあ気をつけるべきは、そういう上辺のネタに騙されていたずらに持ち上げたりする事だろう。そこには前提はない。あるのはただベタだけだ。そして恐るべきは、前提があったとしても、すぐさまベタに陥る環境に他ならない。
<無題> 「見えないパンチに怯える夜」
ガードでジリ貧。いやそもそもなぜ我慢するのか?そのことが興味深いぜ。隻眼の支障は言った。目をそらしていて勝てるのか?と。もっと痛みをくれ!優、マリー、そして四巻を除いたごす→のーダメージ。つまりそれは幻影に過ぎなかった。俺は見えないパンチに怯えていただけ。ようやく渋川モードに。相手は四巻のごすだけだ。
<無題>
主任と高円寺飲み。仕事の情報共有化をはかりつつ、現代思想の話に。デリダで止まっている。フーコー的相対化の欠落。まあ民主主義や基本的人権などというものは一つの制度でしかないのだが、それが自明の真理であるかのように。柄谷行人は日本近代文学の起源において近代という視点の呪縛を明らかにしておきながら、結局はカント的な倫理の再構築に向かったし。カルスタの軽視。今だに学問信仰が強いんじゃない?まあ宮台を色モノとしてしか認識できない保守的な言説が再生産されるような世界に未来はないわな。党派性。
<褐色好きはかく語りき> 「黒ギャル好きはかく語りき」
ポルトギャル、クロイステネテス、クロイファート。なんか最初から間違ってやしませんか?クロイブやクロムウェルでも…いや褐色しょ?やっと気付いた。金髪と褐色のコラボの破壊力に。水上蘭丸とか黒ギャル。特にオイル~はクリティカル。なぜ大宮で指摘され今まで気付かなかったのか!推定全国1000万のギャルに誤れ!三跪九叩頭式で誤れ!ごめんなさいごめんなさい…LV5キター!いや黒ギャル限定だけどな。低年齢だとどうなる?天然スポーツ少女でよくね?suntan.あるいは東南…さーせん、犯罪者がいるんで連行してくださ~い。まだだ、まだ終らんよ!てゆうかわかってねーなー。実行しなきゃ何でもありなんだよ!
<純粋培養の害悪>
差異の根源…ふたなり、ショタ、女装。かわいらしい外見の存在が男根を持っていて感じて射精することにエロスを感じる。そもそもフェラでは女装の意味がまるでない。抑圧と解放の構造があればこそ、受理のストレートさが活きる。ループは誰の仕業か?その目的は?五樹は心中の時に記憶を失うとともに覚醒。その地点に到らせることを蔵女は狙う(だから受理の真似をする)。なぜ最後の話で五樹はあそこまで潤にこだわるのか?単に潤と結ばれた記憶を継承しているから?
<エフピーエスにブチ切れ電話真木よう子> 「Iの奴隷」
まあ筋を通すのって結局は我を通すためである場合も多いのだけど。しかしそういう戦略的な選択なら必ず落し処が存在する。ただ本件のように、不快感を撒き散らすだけの場合だと相手の言いなりになるか徹底的に拒絶するしかなくなる→幼児的。たとえ一般性を志向しようとも、そこには抜きがたい日常性がつきまとうということと(それを意識できないのを論理至上主義という)、最初から日常性の範囲内でしか考えようとしない態度(実践至上主義とでも言おうか)は似て非なるものだ。上野国境、車椅子でリーダーシップ…男性なら違和感、女性なら違和感なし。
<「属性」について書く理由>
解釈の多様性。方向性を決めていないからこそ、どれでもありえる。馬鹿馬鹿しくて自分がおもしろいから。エロゲー・エロゲーマー否定に対する深読みへのカウンター。思考の枠組み自体の客体化・ネタ化。
1:探究する行為自体がおもしろい
2:内容(中身)がネタになる
3:そのようなアプローチ(枠組み)がネタになる
という三つの意味(可能性)がある…というお話。このあたりは、フラグメント79で書いた「突っ込みという行為はあたかも上から見下ろしているような印象を自他ともに受けるのだけど、実はそれってあるべき基準からのズレを指摘している(だけな)のだ」という部分とも繋がる(あるいは「宗教と思索」で触れた「告解」も似たような話)。それが拠って立つ枠組み(前提)に無自覚なままネタ(という婉曲的な形)としてしか表現できないのなら、それもまた一種の閉塞にすぎないのである。まあ婉曲が好まれる社会においては、そのような表現、あるいはコミュニケーション方法が中身を失って単なるスタイルになってもなお温存されるのは必然的な事なのかもしれない(実際には同じ穴のムジナでもネタにした方が頭が良さそうに見える)。
まあ気をつけるべきは、そういう上辺のネタに騙されていたずらに持ち上げたりする事だろう。そこには前提はない。あるのはただベタだけだ。そして恐るべきは、前提があったとしても、すぐさまベタに陥る環境に他ならない。
<無題> 「見えないパンチに怯える夜」
ガードでジリ貧。いやそもそもなぜ我慢するのか?そのことが興味深いぜ。隻眼の支障は言った。目をそらしていて勝てるのか?と。もっと痛みをくれ!優、マリー、そして四巻を除いたごす→のーダメージ。つまりそれは幻影に過ぎなかった。俺は見えないパンチに怯えていただけ。ようやく渋川モードに。相手は四巻のごすだけだ。
<無題>
主任と高円寺飲み。仕事の情報共有化をはかりつつ、現代思想の話に。デリダで止まっている。フーコー的相対化の欠落。まあ民主主義や基本的人権などというものは一つの制度でしかないのだが、それが自明の真理であるかのように。柄谷行人は日本近代文学の起源において近代という視点の呪縛を明らかにしておきながら、結局はカント的な倫理の再構築に向かったし。カルスタの軽視。今だに学問信仰が強いんじゃない?まあ宮台を色モノとしてしか認識できない保守的な言説が再生産されるような世界に未来はないわな。党派性。
<褐色好きはかく語りき> 「黒ギャル好きはかく語りき」
ポルトギャル、クロイステネテス、クロイファート。なんか最初から間違ってやしませんか?クロイブやクロムウェルでも…いや褐色しょ?やっと気付いた。金髪と褐色のコラボの破壊力に。水上蘭丸とか黒ギャル。特にオイル~はクリティカル。なぜ大宮で指摘され今まで気付かなかったのか!推定全国1000万のギャルに誤れ!三跪九叩頭式で誤れ!ごめんなさいごめんなさい…LV5キター!いや黒ギャル限定だけどな。低年齢だとどうなる?天然スポーツ少女でよくね?suntan.あるいは東南…さーせん、犯罪者がいるんで連行してくださ~い。まだだ、まだ終らんよ!てゆうかわかってねーなー。実行しなきゃ何でもありなんだよ!
<純粋培養の害悪>
差異の根源…ふたなり、ショタ、女装。かわいらしい外見の存在が男根を持っていて感じて射精することにエロスを感じる。そもそもフェラでは女装の意味がまるでない。抑圧と解放の構造があればこそ、受理のストレートさが活きる。ループは誰の仕業か?その目的は?五樹は心中の時に記憶を失うとともに覚醒。その地点に到らせることを蔵女は狙う(だから受理の真似をする)。なぜ最後の話で五樹はあそこまで潤にこだわるのか?単に潤と結ばれた記憶を継承しているから?
<エフピーエスにブチ切れ電話真木よう子> 「Iの奴隷」
まあ筋を通すのって結局は我を通すためである場合も多いのだけど。しかしそういう戦略的な選択なら必ず落し処が存在する。ただ本件のように、不快感を撒き散らすだけの場合だと相手の言いなりになるか徹底的に拒絶するしかなくなる→幼児的。たとえ一般性を志向しようとも、そこには抜きがたい日常性がつきまとうということと(それを意識できないのを論理至上主義という)、最初から日常性の範囲内でしか考えようとしない態度(実践至上主義とでも言おうか)は似て非なるものだ。上野国境、車椅子でリーダーシップ…男性なら違和感、女性なら違和感なし。
<「属性」について書く理由>
解釈の多様性。方向性を決めていないからこそ、どれでもありえる。馬鹿馬鹿しくて自分がおもしろいから。エロゲー・エロゲーマー否定に対する深読みへのカウンター。思考の枠組み自体の客体化・ネタ化。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます