考えこんでいるように見えるかもしれんが、議論としては非本質的。
「敬虔」とは、「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依して、つつしみ仕えること。」悪い人ではないがどこかナイーブな存在というニュアンス。
話師
押し付ける者ではない。考えさせる。気付かせる。それはカマトトぶっているのではなく、「巣立」てなかった者としてともに悩みを共有する。森でのラッカへの振舞いも単に「いい人」などではなく、もっと深みのあるものに見えてくるだろう。重要な点だが、どれだけの人がそこまで意識したのかは疑問。敬虔さをあまり感じさせない。ナチュラルな印象。ヒカリ・・・初の寺院なのに緊張感がないwレキの反発。
話師という。答えを教えたり何かを押し付けたりするのではなく、謎かけをすることによって気付きをもたらすやり方。しかもそれは知っているからではない。彼は「巣立」てなかった灰羽=真理を知る者ではない。実際見通すような発言をする一方で、「私は知らない」という。もし彼が~なら。白々しい嫌味のようにしか見えないが。
初回は市のシーンの顔見せ。不気味?しかし二回目、ヒカリの行動によって。厳かな、あるいはいかめしい雰囲気のはずの寺院、そして初の話師との対話。ラッカのミスによって微笑ましさがクローズアップ。相手を貶めることなく、無害化した。3回目は共に悩み、考えようとする姿。「杖を返してもらわねばならないからな」、「牢屋?ンフフ」。もし脚本集にあるような形でネタにしていたら、見え透いた照れになって白けるし、何より話師との対話の重みがなくなる。
強いて言えば、クラモリはそのように見える。自己犠牲の精神と慈愛に満ちた聖母。寺院で思わず声を発してしまう・・・おっちょこちょいなヒカリとのコントラストまで意識したのか?
レキに対する振舞い。ただあれも、細かく言えばレキの視点に引っ張られているのであり、クラモリはクラモリなりの葛藤があったと考えられる(灰羽が何歳くらいから年少組でなくなり、何歳が上限なのかは不明だが、何年かは灰羽として過ごした?)。
クラモリみたいなキャラが最初にいて「巣立」ったのなら、順当な感じがするとともに、視聴者は衝撃を受けなかっただろう。
実際レキはクラモリになろうとした。だが果たせず、自暴自棄になって本心を露悪的にさらし、一度はラッカの手をはねのけた。しかしそれでも、自分を助けてくれたレキを~して、クラモリ的に。レキは「巣立」っていった。
しかし飄々としてまだ幼さ・無邪気さを残すクウが真っ先に「巣立」つからこそ、意外性と偶然性が際立つ。誰の目にもわかる「巣立ち」の徴はなく。
クウの「巣立ち」方、クラモリの人物造詣、そしてレキの「巣立ち」方を重ね合わせると、敬虔さや信心によって到るものではないと理解される。
思弁によって世界の成り立ちや自らのあるべき姿に到達する自意識よりも、生活を積み重ねながら関係性の中で。
仮にクラモリのようなキャラが「巣立」ったとしても、「接吻」のヒロインの言動と反対に、「そういう奴だからそう考えるだけ」という風に無害化(キャラ化)されて終了。
クウがそうなるからこそ、(単なる自意識の問題ではなく)誰にでも起こりうるものであるという偶然性が意識づけられ、
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます