「誤読の自由」と言われるようになって久しいが、それは根拠薄弱な読みを正当化するのとは全く別の話である。その好例として、今回は「北斗の拳」に登場するレイというキャラクターが(正確にはシンよりも)弱い、とする解釈を取り上げてみたい。
この「レイは弱い」説の根拠としては、レイが本気を出していないラオウに敗れたのはもちろん、カサンドラの門番であるライガ・フウガから傷を得てケンシロウに交代したことなどが例に挙げられている。では、この解釈は妥当なのだろうか?
ここで考えてみたいのは、今述べた二つの場面の演出意図である。まず、レイがラオウに敗れる場面は、(その時点でおそらくラスボスに近い強敵となるであろう)ラオウの圧倒的強さを印象づける目的で描かれており、そのことをもってレイを弱いと解釈するのは妥当性を欠く。
次にライガ・フウガとの戦闘だが、そもそもレイは二人と本格的に戦闘はしていない状態だ。ただそれでも、レイが手傷を負ったことで、二人が並大抵の敵でないことは印象づけられる。その状況において、ケンシロウが二人を圧倒したことにより、「ケンシロウの圧倒的強さ」が示されるだけでなく、二人がケンシロウに心服し中へ案内するという「世紀末救世主伝説」へと連なる展開になる。
要するに、二つの場面の演出目的は、それぞれ「ラオウの強大さを示す」・「ケンシロウの強さを示す」ことであり、レイはいわばその「ダシ」に使われたに過ぎない(なお、こういう演出はバトル漫画において非常に多く見られ、例えばかつて苦戦した敵が味方となって新しい敵と戦うも、あっさりと敗北し、新しい敵の強大さが印象付けられるケースなどが挙げられる)。そして他の箇所における彼の描写を検証すれば、奥義でユダを葬ったことを筆頭に弱いとみなされる場面がない以上、「レイ=弱い」と解釈する根拠はないと言えるだろう。
ここまでの話では、「個人の解釈の問題=どうとでも解釈しうる」と思われるかもしれないが、それでは例えば私が「北斗神拳の使い手は宇宙人である(地球人ではない)」と主張したとしよう。これに対し、おそらく困惑した上で次のように言うのではないだろうか。すなわち、「本編の中にケンシロウたちが宇宙人だと解釈できる描写はないのでは?」と。そこに対し、さらに私が「そもそもあんな拳法を使える人間が現実世界にいない以上、彼らを地球人とみなすことはできない」と述べたらどうだろう?やはり多少困惑しながら、「いやこれフィクションだし、それを言ったら話が始まらないでしょ」といった反応をするのではないだろうか。
つまり、北斗の拳はノンフィクション作品ではないため、ある程度のファンタジー(超現実的)要素を織り込み済みの上、本編の描写からより蓋然性の高い人物像・物語像を紡いでいる(=リアリズムで思考している)以上は、本編の描写の意図や全体とのバランスを考えながら解釈するのは当然のことであり、それに則るならば「レイは弱い」とする解釈は成立しがたいと言えるのである。
というわけで、誤読の一例として、「北斗の拳のキャラクターであるレイは弱い」という解釈を取り上げてみた。もちろん、『北斗の拳 イチゴ味』ではないが、そういった本編からの妥当な解釈を踏まえた上で原作破壊をするのは自由である。ただ、(木を見て森を見ずのような)ある特定の描写を表面的にしか理解しない姿勢について、そういう読解力の無さを「誤読の自由」という言葉でお墨付きを与えるのはいかがなものかと感じる次第である。
なるほど確かに、「著者が思う読み方が唯一無二の正解ではない(=著者は特権的存在ではない)」という文脈において、「誤読の自由」があるというのは理解できるし、重要な概念だ。しかしそれを前提にすることで、今度は「何とでも解釈できる(いかなる解釈もフラットに正しい)」とするのは単なる思考停止への一里塚であり、情報リテラシーの低下や相手の発言意図への無理解を促進し、さらにそれを正当化しさえする、という意味において有害と言えるだろう。
以上。
ちなみに今回の話は、作品の鑑賞と国語の入試問題を混同し、「制限時間つきで合格者を選抜せねばらないという性質上、どこまで行っても出題者の意図を踏まえた点取りゲームを脱することができない」後者を、(良い意味でも悪い意味でも)前者と勘違いするのともつながる。参考までに次の動画を掲載しておこう(ちなみにこの話は日本の教育システムに関する話や、あるいは欧米の大学との比較にもリンクする)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます