ソメイヨシノは幾たびかの挫折や環境の激変を越え、今年も精一杯の満開を伝えてくれた。近くのこの狭い国道は、朝鮮人たちが日本人の差別的視線と言動に耐えながら汗を流し建設にかかわった道でもある。地元にとっては、都市と山里とがやっとつながってその便利さに狂気の大喜びをした道だった。しかしそれにもかかわらず、山里の暮しはじわじわとさびれていく歴史でもあった。そんななかでも、村人たちは丹念に希望の桜を植えてみたのだった。今ではそろそろ寿命の年齢に達しようとしている桜だ。花見をする人影もなく、車だけは忙しそうに通り過ぎていく。
学生たちが東京から泊まり込みで設計・施工したという知人の庭はすっかり老熟したような自然体を見せてくれる。鉄路を乗せていた枕木も今では雑草や花たちと静かな絵画となっている。この道の先には東屋が待っている。そこで幾たびも話を咲かせ、まわりにみなぎる山野草を楽しみ、果樹を収穫する汗を喜び、野外料理をたしなみ、希望を共有してきた場だった。
しかし今では、その歓談の交響曲もすっかり消え、貴重な山野草も盗掘が繰り返される庭となってしまった。それでも悔しさを叩きながら新たな山野草を植え付けるかくしゃくとした媼がいる。そうした運命を繰り返してきたその庭の道。訪れる人が絶えなかったその道の行末は何が待っているのだろうか。希望の聖火を灯し続けてきた媼の情熱は誰が引き継ぐのだろうか。ときおりそこの庭を訪れるたびにその道の風景の変化を魅入るのだったが。
先人たちが作ってきた道はあるが、その道はときに消えたり、迷宮になったりもする。だから、杖で道を確認していくしかない。過疎地の道は日本の厳しい未来とつながっている。
魯迅いわく「希望とは…地上の道のようなものである。地上にはもともと道はない。歩く人が多くなればそれが道になるのだ」と。