日光を訪れた芭蕉は「あらたふと青葉若葉の日の光」と詠んで家康の威光を讃えた。東照宮のきらびやかさと緑なす自然との対照を見事に詠んでいる。たしか、この句は国語の教科書に載っていて珍しくオイラの縮んだ海馬の片隅に残っていた。
そんなおり、杉ばかりの針葉樹が目立つわが寒村も、春には若葉が燃える風景がそこに確かにあることにあらためてハッとする。
しかしそこには、もう一つの現実があった。数年前全焼にあった家の柱や樹木の片鱗が近くに遺されていた。その一家は今どうしているのだろうか。最近煤だらけだった樹木を伐採したらしく新たな動きがはじまったようだ。遠くの桜がこの風景を癒してくれている、溶かしてくれているという気がしてならない。 芭蕉の見た東照宮とは違って、こちらのほうが人生のはかなさ、人は自然の一部分であることをいざなう風景がある。
その意味で「あらたふと」という「ああ、尊いなぁ」という尊厳の気持ちを読み替えたい。だから、「あらたふと青葉若葉の山の里」なんだ。春はそれぞれの個性を生かしてくれる。それは今のうちに海馬に残しておきたい風景である。
夏になればこの風景も緑一色に塗りつぶされてしまう。「一強体制」は個性的な多様性を潰し自主性を摘み取ってしまう。現実日本の「一強体制」に風穴を開ける主体の脆弱さにもどかしさとストレスがたまっていく。
その意味で、気鋭の評論家・西部邁氏の絶望に共感するが、氏もこのような風景を体に取り入れていれば自死することもなかったのではないかと勝手に思う。