山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

上下に穂ができるヒメガマ

2024-07-08 22:39:18 | 植物

 2年前の春に仲間と作ったビオトープに「ヒメガマ」の穂ができた。しばらく放任してどんな植物や生き物が来るか様子を見ていたが、目立つ生き物の主となったのは「トノサマガエル」だった。4月以降、ビオトープ周辺はお殿様の声明(ショウミョウ)でにぎやかになる。しかしその春以降は、あまり変化がないようなので、ヒメガマやハスをネットで購入して植え付けて間もない。そのヒメガマにまさに「ガマの穂」ができた。

  

 オラが小さいころ、ガマの穂を見る機会がたまにはあったが、最近は出かけないのでまったくお目にかかれなくなった。ヒメガマの穂には上下二つの穂ができるのをこのビオトープで初めて知った。

 岡山県倉敷市の重井薬用植物園によれば、「蒲鉾」は、「竹輪」の姿がガマの穂に似ていたことから、「蒲団」は、ガマの穂綿を綿の代用として寝具に入れたことから、「蒲」の字が使われたという。また、本種は古来より薬用、食用、生活資材などとして利用されてきたとして、背負いかごや腰かご、円座などの「がま細工」が県内でも作られているという。材料としてのヒメガマは、葉が細く細工しやすく、葉の内部は、隔壁で仕切られた通気道が通っており、スポンジのように空隙が多いため軽いうえ、水にも強く、非常に丈夫で実用的な民芸品でもあるとしている。

  

 また、千葉県野田市HPでは、植物観察のポイントを詳細に紹介していて、ヒメガマについては、上に雄花、下に雌花の穂ができるのをわかりやすく教えてくれている。ガマには、ガマ・コガマ・ヒメガマの仲間があること、晩秋には硬い穂がほぐれて風に乗って飛んでいくことなど、素人にもわかりやすく紹介してくれるのが素晴らしい。なお、植えたハスの花は間もなく咲く準備をしているようで、つぼみが膨らみ始めた。やっと楽しみが増えてきたビオトープとなってきた。

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朋有り、遠方より来たる また楽しからずや!!

2024-07-06 22:00:52 | 出会い・近隣

  先日、関東からはるばるわが過疎の山里へ畏友がやってきた。U君とは十数年来の再会である。その友人のM君は、和宮様と偶然同郷であったのにびっくり。U君とは同じ職場関連での出会いだった。オラは、一人暮らしの母親の安心を確保するため急遽実家へUターンし、職場をあちこち探したが見つからず、なんとか年齢制限ぎりぎりで滑り込んだ職場だった。児童福祉の専門職とは言いながら、関心も興味も全くなかったなかでの恥ずかしい進路変更だった。

 

  U君が入職した同期生には、国立大卒の専門家や遊び・アートの名人が多かった。そのためもあって、オラも一から勉強を始め出したというわけだ。その師匠がU君だった。彼とは、時間外に内外の有志とともに研究会を創って幅広く教えてもらった。まさに、第二に青春が来たような、第二の寺子屋でもあった。その実践編として、地域の子ども会をつくりそれなりに広く紹介されるなど、それらに関連した時間外対応で帰宅はいつも10時を越えていた。

  

 そんな状況でも伴走してくれたのがU君だった。「朋」とは同じ師匠について学ぶ友人たちだが、『論語』によれば、そうした同門らが集まっていろいろ語り合い学び合う喜びが「楽しからずや」というわけである。過疎地にいるとつい人との関係が途切れてしまいがちで、話題も同質に染まりがちだ。その意味でも、久しぶりに、世界を日本を地域を老後の今を風のように話題にしていくのは快感だ。

 

 M君は、和宮様と懐かしそうにローカルな話題で盛り上がっていた。郊外の地にありながらそこだけの地域に染まらず市民運動へも足を運んでいるのがすごい。そのうえで、これからの農家をじっくり捉えようとしている大地主の好青年でもある。

 

 帰り際、U君はドキュメンタリー映画のチラシとチケットを置いていった。映画監督の原村政樹氏は、山形高畠町の有機農法の軌跡を描いた「いのち耕す人々」や最近作の「若者は山里をめざす」などの話題作を製作しているが、残念ながらまだ見てはいない。時流にこびず農村で黙々と生きる姿を追った映画作りに定評がある監督だ。しかしながら、開催される自主上映会の情報がなかなか届かない現状に、いつもマスメディアの目立てばいい不条理を思わずにはいられない。

 

 U君が相変わらず市民の側に立つ活動にこだわっている姿がかっこいい。後期高齢者になってもなお市民活動に熱い視線を送り、いまだ活動に参画していることにあらためて敬意を送りたい。

  

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 柱にからみついて怒髪天となる鳴神上人

2024-07-03 22:39:25 | アート・文化

 武者絵と言えば江戸後期に活躍した「歌川国芳」だ。この浮世絵は、歌舞伎十八番の「鳴神上人(ナルカミ)」が柱に絡んで怒りが収まらず「見得」を切る有名な場面だ。皇子誕生に貢献した高僧鳴神上人は、朝廷が約束した戒壇設立を反故(ホゴ)にされたため、法力で龍神を滝壺に封じてしまう。そのため、雨が降らず日照りが続く。

 それに対して、朝廷から送り込まれた「雲の絶間(タエマ)姫」は色仕掛けで上人を破戒させ、滝の注連縄を切ると封印が解け、龍神が出現し雨が降る。騙されたとわかった上人は髪を逆立て炎となって荒れ狂い、柱に絡みついて見えを切るという山場だ。

  

 最後は絶間姫を追って、花道を「飛び六法」で盛りあげるという筋書きだ。嘉永4年(1851)に市村座で上演、八代目市川團十郎が演じる鳴神上人は、前半は気高い有髪の僧形。気品、威厳、生真面目さが表現される。後半は、一変して荒事により、裏切られた男の怒りを「柱巻きの見得」をはじめ、荒々しく立ち回るという変化が見ものだ。

  

 今までにない発想と画力で江戸の人々を魅了した一勇斎国芳は、1818~1860年(文政元年~万延元年)の間に用いていた画号のようだ。「年玉印」は「年」の草書体をデザイン化した物で、歌川派の絵師であることを示す家紋のような印。歌川国貞がこの年玉印をしばしば使用した一方、国芳は国貞が「2代目歌川豊国」を名乗り出して以後、この年玉印の落款の使用を避けて、「芳」の字を崩した「芳桐印」を押すようになる。

芳桐印

 国芳は、国貞とは別路線を歩むことを明確にしていったが、広重が間に入って平和共存路線に移行していったらしい。歌川派の分裂が避けられた形だろうか。それにしても、この落款から、「年」の字を草書体に崩し、丸型から瓢箪型に埋め込んでいくなどとはなかなかわからない。しかし、こんな小さな落款から、浮世絵師の振る舞い・センス・ユーモア・反骨精神などが見て取れるのが面白い。

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あじさいや花と露との重みにて

2024-07-01 22:36:59 | バタフライガーデン

 挿し木で増やしたアジサイがバタフライガーデンでしっかり咲いてくれた。ここまで来るには4~5年はかかっている。シカの食害にあったり、小さな苗を草刈り機で伐ってしまったり、なかなか大きくならなかったりとそれぞれの宿命はあるものの、トータルとしては雑草草原の中にひときわ目立つ花を見せてくれている。

 

 しかしながら、とりわけセイヨウアジサイは花が重くて草むらに倒れているのも目立っている。もちろんそれを防止すべく支柱を立てたりの作業が要請されるが、なかなか後期高齢者はでききれていない。その意味では、ガクアジサイの方が作品として原種としても自立していて優れている気がする。そのうえ、この間の梅雨模様の雨でさらなる倒伏も気になってしまう。

 

 正岡子規が「あじさいや花と露との重みにて」とか「アジサイや一かたまりの露の音」とかの連作を謳っているのがぴったりの情景だ。

 同志社女子大学の吉海直人教授は、かつてアジサイは人気がなかったと次のように指摘する。『枕草子』や『源氏物語』などの女流文学や『古今集』などにも見えないので、花鳥風月が盛んだった平安時代では「あじさい」は貴族が称讃するような美しい花とは見られていなかったらしい。

 

 その「あじさい」は、シーボルトが「あじさい」の学名を「おたくさ(お滝さん)」(ハイドレンジア・オタクサ)にしようとしたことで、さらにまた、牧野富太郎はそれはアジサイの神聖をけがしたものだと非難するなど話題になり、それ以降有名になっていく。つまり、人気が出てきたのは幕末以降明治期に入ってからの新参者の植物だというわけだ。そういえば、最近の園芸種のアジサイが次々売られているのが気になる。それでも、ガクアジサイの品種のほうが品がある。

 

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