傑出した実業家であり、茶人でもあり、遊び人でもあり、文筆家でもある、松永安左エ門著作集を読んでいると、下のような一節。
松永安左エ門著作集5 p28(わが茶日夕)
風流といえば怠惰のようであり隠退的である。しかしホントの風流は俗気満々の不風流であり、コセコセと齷齪(アクセク)することである。薪を運び水を汲み食物を整え、火を起こし茶を点てることであり、人手に任せず自分で工面し、自分でお給仕をすることである。「風流ならざるところ也(マタ)風流」これが風流の本体であり、心入れの生活茶であるが、ドウモ生まれつき精力の足らぬ人やわがままで世を渡った人にはそれと分かっていても面倒がったり、また何かの考え違いでこの努力の俗茶が出来ない。・・・・・畢竟「茶」は美であり、享楽である。茶の湯は交会の芸術である。諸友はその基づくところを忘れて末の規矩に労したり、道学者の窮屈を学ぶことなかれ。
竹田農園で午後、いつも楽しんでいるバーベキューそのままではないか。
江藤翁(農園のお隣に住む、88歳、元南海ホークスのエース)とのバーベキュー約束の時間がせまると、大急ぎで鍬を放り投げて、これは時間が無いと農園の林に一目散(コセコセ、アクセク)、クーラーボックスから釣って冷凍していたアジを塩を急ぎまぶして金串に刺し、畑で食べれそうなピーマン、ネギ、ジャガイモ等の野菜をもぎ(食物を整え)、薪を運び(冬は必需品、イノシシ除けの鈴を腰に、山道のあちこちにころがる直径5センチほどの木の枝を数本ずるずる引きずり林に持ち帰る)、水道は電動ポンプは壊れてはや15年、バケツに集落の水場からきれいな水を汲んできて、柄のとれた柄杓を投げ込み、これで水をすくって、手洗い、立派な水道(水を汲み)。最後にバーベキューコンロにくべて火を起こす。
竹の小枝を立てて小さい火の回りにくべていくと、本格的な火が起こる。
食べごろに魚、肉、野菜、芋が焼ける。
家族や、友人が集まり(冒頭の写真 2009/5のバーベキュー)歓談、舌鼓(茶は交会の芸術)。
食べたいものは、自分で焼いたり、焼いてあげたり(自分でお給仕)。
カッポ酒の切り出したばかりの竹の色艶、山の鮮やかな緑(美である)。
しかし、欠けていたものがあった。
ビールや日本酒は堪能するが(俗茶ではほどほどのお酒ものむそうな)
お茶は最後まで出ないことが多い。
ここが、進歩ののりしろ。
農園の畑の一角は、茶の生垣。
多分亡くなった妻の両親が植えた。
イノシシ侵入の便利な塀としては利用したが、ついぞ茶として飲んだことがない。
これの小枝を葉の適当についたまま折ってきて、それを、大きめの竹に入れ、井戸水を注いでカッポ酒のように沸かすと立派な茶。
飲み仲間の不良爺さん達、血圧が高い方がチラホラ。
渋柿の若葉を煎じて飲むと血圧にいいらしい。
初夏、農園の渋柿の若葉を摘んできて、沸騰した竹筒の中の湯で煎じて柿茶にしたら、喜んでもらえるし風味がありうまい。
湯飲茶碗は、カッポ酒・茶の残りの竹で即席で作る。
今後は、農園のバーベキューの仕上げは、カッポ茶で行こうと、松永安左エ門の茶の随筆を読んで思って次第。
今度の日曜日、コーラル丸で関門初釣り。
今度こそ、波静かでありますように。
松永安左エ門著作集5 p28(わが茶日夕)
風流といえば怠惰のようであり隠退的である。しかしホントの風流は俗気満々の不風流であり、コセコセと齷齪(アクセク)することである。薪を運び水を汲み食物を整え、火を起こし茶を点てることであり、人手に任せず自分で工面し、自分でお給仕をすることである。「風流ならざるところ也(マタ)風流」これが風流の本体であり、心入れの生活茶であるが、ドウモ生まれつき精力の足らぬ人やわがままで世を渡った人にはそれと分かっていても面倒がったり、また何かの考え違いでこの努力の俗茶が出来ない。・・・・・畢竟「茶」は美であり、享楽である。茶の湯は交会の芸術である。諸友はその基づくところを忘れて末の規矩に労したり、道学者の窮屈を学ぶことなかれ。
竹田農園で午後、いつも楽しんでいるバーベキューそのままではないか。
江藤翁(農園のお隣に住む、88歳、元南海ホークスのエース)とのバーベキュー約束の時間がせまると、大急ぎで鍬を放り投げて、これは時間が無いと農園の林に一目散(コセコセ、アクセク)、クーラーボックスから釣って冷凍していたアジを塩を急ぎまぶして金串に刺し、畑で食べれそうなピーマン、ネギ、ジャガイモ等の野菜をもぎ(食物を整え)、薪を運び(冬は必需品、イノシシ除けの鈴を腰に、山道のあちこちにころがる直径5センチほどの木の枝を数本ずるずる引きずり林に持ち帰る)、水道は電動ポンプは壊れてはや15年、バケツに集落の水場からきれいな水を汲んできて、柄のとれた柄杓を投げ込み、これで水をすくって、手洗い、立派な水道(水を汲み)。最後にバーベキューコンロにくべて火を起こす。
竹の小枝を立てて小さい火の回りにくべていくと、本格的な火が起こる。
食べごろに魚、肉、野菜、芋が焼ける。
家族や、友人が集まり(冒頭の写真 2009/5のバーベキュー)歓談、舌鼓(茶は交会の芸術)。
食べたいものは、自分で焼いたり、焼いてあげたり(自分でお給仕)。
カッポ酒の切り出したばかりの竹の色艶、山の鮮やかな緑(美である)。
しかし、欠けていたものがあった。
ビールや日本酒は堪能するが(俗茶ではほどほどのお酒ものむそうな)
お茶は最後まで出ないことが多い。
ここが、進歩ののりしろ。
農園の畑の一角は、茶の生垣。
多分亡くなった妻の両親が植えた。
イノシシ侵入の便利な塀としては利用したが、ついぞ茶として飲んだことがない。
これの小枝を葉の適当についたまま折ってきて、それを、大きめの竹に入れ、井戸水を注いでカッポ酒のように沸かすと立派な茶。
飲み仲間の不良爺さん達、血圧が高い方がチラホラ。
渋柿の若葉を煎じて飲むと血圧にいいらしい。
初夏、農園の渋柿の若葉を摘んできて、沸騰した竹筒の中の湯で煎じて柿茶にしたら、喜んでもらえるし風味がありうまい。
湯飲茶碗は、カッポ酒・茶の残りの竹で即席で作る。
今後は、農園のバーベキューの仕上げは、カッポ茶で行こうと、松永安左エ門の茶の随筆を読んで思って次第。
今度の日曜日、コーラル丸で関門初釣り。
今度こそ、波静かでありますように。