田舎生活をしていると、読書時間はたっぷりあり、現在は、W.S.チャーチル(1940~1945英国首相)の第二次世界大戦を読んでいる。チャーチルは戦後この本を執筆、ノーベル文学賞を受賞している。何度か読んだ本で、当初は、面白い戦記物ぐらいのつもりで読んでいたのだが、全4巻(縮刷版)の第一巻、陰気で憂鬱な感じがしていた、第二次大戦前のヨーロッパの政治が、今の民主党政権のリーダーと二重写しになり、今回は丁寧に読んだ。
英国首相は1935~1937がボールドウィン、1937~1940がチェンバーレン。時代は、第一次大戦で軍備が制限されていたドイツが、ナチスドイツが政権を取り、協定を破って軍備を進め、ラインラント占領、オーストリア占領、チェコ占領と領土拡張を進めていた恐怖の時代。イギリスは有効な手を打つように閣外のチャーチルは一下院議員として何度も警鐘を鳴らしている。
次の選挙の票の行方の方が、国の安全より大事と言うボールドウィン首相は、かつての民主党の影の総理、某氏を連想させる。ヒトラー、ムッソリーニと信頼関係を作り世界平和を実現できると信じ、裏で、くたびれた金持ちの息子と軽蔑されたチェンバーレンや、決定しないための決定をしているとチャーチルに罵倒されたボールドウィンは、友愛を連発した元首相を思い出させる。
現在の野田首相はチャーチルを尊敬しているとのこと。確かに、年変わりの野田首相前の自民・民主の5人の首相より、よく国内・海外の事情に通じているし、勇気も、ずぶとさもある。日本のために後、4、5年力を発揮してほしいもの。
第二次世界大戦のこの時代のさわりの部分を抜書きすると以下のとおり。
ちょっと長く、分かりづらいかも。
第二次世界大戦 W.S.チャーチル著(1) 河出書房
P166
「ある日、政府部内の枢要の地位にある私の友人の一人がチャートウェルを訪ねてきて、私と一緒に太陽が輝き水がかなり暖かい私のプールで泳いだ。われわれの話は来るべき戦争だけに集中したが、必ず戦争になるということについて、彼は必ずしも確信をもっているようでもなかった。彼を送り出すとき、彼は急にはっと気がついたように振り返って私に言った。「ドイツは毎年軍備に十億ポンドを使っている」(1936年)<1937年のイギリスの軍事費は2億3千4百万ポンド>
P170
「1936年の一年間を通じて、国民と議会の不安はつのるばかりだった。特にその不安はわが防空体制に集中された。12月12日の議案審議の席上、私はボールドウィン氏(首相)が「・・現内閣ならその空軍能力においてわが国を、対岸から攻撃しうる範囲内のいかなる国にも、今後劣勢を取るようなことはさせませぬ」と誓約したことを守らなかった点を、痛烈に攻撃した。私は言った「政府は全然決意することが出来ないのである。さもなければ首相に決意させることが出来ないのである。そのために政府は奇妙な逆説的言辞を弄し、単に決定せぬための決定をし、決断せぬための決断をし、成り行きのままに任せ、流動するままに放置し、無為無策のために力を傾けているのであります・・・・」
これに対してボールドウィン氏は、注目すべき次のような演説をもって私に答えた。
「・・・諸君は1933年秋のフラムの選挙で、当時挙国内閣が持っていた一議席が、平和主義者以外の得票がなく、約7000票の差で失われたことを、ご記憶と思います。・・・大政党の指導者として私の立場は、決して楽なものではありませんでした。・・よしんば私が地方に出かけて、ドイツは再軍備を進めている、かかるが故にわれわれも再軍備しなければならないと言ったところで、当時この平和主義を唱えている民主国が、その叫びに呼応したと誰が思うのですか? 私の見解から申し上げるならば、これ以上に選挙の敗北を招くものが、他にあろうとは思われません。」
これは正しく甚だしき率直さであった。それは彼の動機を不体裁にまで赤裸々の事実を見せたものだった。いやしくも一国の首相たるものが、選挙に敗れるのを恐れるあまり、国家の安全に関して自分の責務を果たさなかったとか公言するのは、わが議会史上類例を見ぬ出来事であった。
P183
チェンバーレン氏は、イタリアとドイツの独裁者(ムッソリーニとヒトラー)と友好関係に入ることが彼に課せられた特別の個人的使命だという考えに取りつかれており、彼は自分にはこの関係を作り上げる自信があると思い込んでいた。
P190
チェンバーレン氏がヨーロッパ情勢について限定された見識と経験しか持たないにもかかわらず、大西洋のかなたからわざわざ差し出された手(アメリカのルーズベルト大統領からの平和会議開催の提案)を払いのけた過信は、今日でもなおあっけにとられて驚かざるを得ない。
P229
<1938年、チェコの一部ドイツ併合を認めたミュンヘン会議で>
チェンバーレン首相はヒトラーに対して、個人的会談に応じる気持ちがあるかどうかを尋ねた。ヒトラーは「そのアイデアに飛びついた」・・チェンバーレンは予め用意しておいた次の宣言草案を提出した。それは「英独関係の問題は、両国ならびにヨーロッパにとって最も重要である。我々は、昨夜調印された協定および英独海軍協定をもって、今後われわれ両国は相互に断じて戦争に入らぬことの願望の象徴とみるものである」
ヒトラーはそれを読むと、異議なく署名した。
チェンバーレンはイギリスに帰ってきた。彼は着陸したヘストンで、ヒトラーに署名させた共同声明を振って見せ・・・彼の車が歓呼の声を上げる群衆の間を縫って空港から帰るとき、彼は同席しているハリファック(外相)に言った、「すべては3カ月以内に解決する」
ミュンヘン協定に関する三日間の討議の冒頭に、海相ダフ・クーパーは辞職の演説をした。・・・これは、保守党内の仲間割れであった。・・・私はいまでもよく覚えているが、私が「われわれは徹頭徹尾敗北を喫したのだ」と言ったとき、沸き起こった怒号のために、次の言葉をはじめる前にしばらく立ち往生をしなければならなかった。
P234
すでに説明したように、全国的計画による軍需品生産は四か年計画である。第一年は無生産、第二年はごく少量、第三年は多量、そして第四年は洪水。この期間におけるヒトラーのドイツは・・第三年か、第四年であった。
一方イギリスはまだ非常事態に立っていない状態で、はるかに弱い刺激と、はるかに小さい規模で動いているだけだった。1938、39年のイギリスのあらゆる種類の軍事費は3億400万ポンドに達したが、ドイツは少なくとも15億ポンドであった。
P239
チェンバーレンは依然として、世界情勢に著しい改善をもたらすためには、独裁者たちと個人的に接触するほかないと信じていた。独裁者たちの決定はすでになされていることを、彼はほとんど知らなかった。・・・チアーノ(ムッソリーニの娘婿 外相)の日記の中で、イタリアでは陰でイギリスとイギリス代表について語っていたことを読むと、赤面せざるを得ない。「あの人たちは、とムッソリーニは言った。フランシス・ドレークやその他の、大冒険をしてイギリス帝国を作り上げたような人たちと出来が違うのだ。結局金持ちの何代も後の疲れ切った息子たちさ」
P242
ミュンヘン会議の決定によってその要塞線を奪われ、危機に瀕しているチェコ政府に、最後通牒(さいごつうちょう)を送った。プラハに侵入したドイツ部隊は、無抵抗の国を完全にその手におさめた。私は、下院の喫煙室でイーデンとすわっているとき、この事件を論じた夕刊が来たのを覚えている。われわれのように、幻影を持たず、熱心に事実を示してきた者でさえ、この無法な突然の暴力には驚いた。・・・
英国首相は1935~1937がボールドウィン、1937~1940がチェンバーレン。時代は、第一次大戦で軍備が制限されていたドイツが、ナチスドイツが政権を取り、協定を破って軍備を進め、ラインラント占領、オーストリア占領、チェコ占領と領土拡張を進めていた恐怖の時代。イギリスは有効な手を打つように閣外のチャーチルは一下院議員として何度も警鐘を鳴らしている。
次の選挙の票の行方の方が、国の安全より大事と言うボールドウィン首相は、かつての民主党の影の総理、某氏を連想させる。ヒトラー、ムッソリーニと信頼関係を作り世界平和を実現できると信じ、裏で、くたびれた金持ちの息子と軽蔑されたチェンバーレンや、決定しないための決定をしているとチャーチルに罵倒されたボールドウィンは、友愛を連発した元首相を思い出させる。
現在の野田首相はチャーチルを尊敬しているとのこと。確かに、年変わりの野田首相前の自民・民主の5人の首相より、よく国内・海外の事情に通じているし、勇気も、ずぶとさもある。日本のために後、4、5年力を発揮してほしいもの。
第二次世界大戦のこの時代のさわりの部分を抜書きすると以下のとおり。
ちょっと長く、分かりづらいかも。
第二次世界大戦 W.S.チャーチル著(1) 河出書房
P166
「ある日、政府部内の枢要の地位にある私の友人の一人がチャートウェルを訪ねてきて、私と一緒に太陽が輝き水がかなり暖かい私のプールで泳いだ。われわれの話は来るべき戦争だけに集中したが、必ず戦争になるということについて、彼は必ずしも確信をもっているようでもなかった。彼を送り出すとき、彼は急にはっと気がついたように振り返って私に言った。「ドイツは毎年軍備に十億ポンドを使っている」(1936年)<1937年のイギリスの軍事費は2億3千4百万ポンド>
P170
「1936年の一年間を通じて、国民と議会の不安はつのるばかりだった。特にその不安はわが防空体制に集中された。12月12日の議案審議の席上、私はボールドウィン氏(首相)が「・・現内閣ならその空軍能力においてわが国を、対岸から攻撃しうる範囲内のいかなる国にも、今後劣勢を取るようなことはさせませぬ」と誓約したことを守らなかった点を、痛烈に攻撃した。私は言った「政府は全然決意することが出来ないのである。さもなければ首相に決意させることが出来ないのである。そのために政府は奇妙な逆説的言辞を弄し、単に決定せぬための決定をし、決断せぬための決断をし、成り行きのままに任せ、流動するままに放置し、無為無策のために力を傾けているのであります・・・・」
これに対してボールドウィン氏は、注目すべき次のような演説をもって私に答えた。
「・・・諸君は1933年秋のフラムの選挙で、当時挙国内閣が持っていた一議席が、平和主義者以外の得票がなく、約7000票の差で失われたことを、ご記憶と思います。・・・大政党の指導者として私の立場は、決して楽なものではありませんでした。・・よしんば私が地方に出かけて、ドイツは再軍備を進めている、かかるが故にわれわれも再軍備しなければならないと言ったところで、当時この平和主義を唱えている民主国が、その叫びに呼応したと誰が思うのですか? 私の見解から申し上げるならば、これ以上に選挙の敗北を招くものが、他にあろうとは思われません。」
これは正しく甚だしき率直さであった。それは彼の動機を不体裁にまで赤裸々の事実を見せたものだった。いやしくも一国の首相たるものが、選挙に敗れるのを恐れるあまり、国家の安全に関して自分の責務を果たさなかったとか公言するのは、わが議会史上類例を見ぬ出来事であった。
P183
チェンバーレン氏は、イタリアとドイツの独裁者(ムッソリーニとヒトラー)と友好関係に入ることが彼に課せられた特別の個人的使命だという考えに取りつかれており、彼は自分にはこの関係を作り上げる自信があると思い込んでいた。
P190
チェンバーレン氏がヨーロッパ情勢について限定された見識と経験しか持たないにもかかわらず、大西洋のかなたからわざわざ差し出された手(アメリカのルーズベルト大統領からの平和会議開催の提案)を払いのけた過信は、今日でもなおあっけにとられて驚かざるを得ない。
P229
<1938年、チェコの一部ドイツ併合を認めたミュンヘン会議で>
チェンバーレン首相はヒトラーに対して、個人的会談に応じる気持ちがあるかどうかを尋ねた。ヒトラーは「そのアイデアに飛びついた」・・チェンバーレンは予め用意しておいた次の宣言草案を提出した。それは「英独関係の問題は、両国ならびにヨーロッパにとって最も重要である。我々は、昨夜調印された協定および英独海軍協定をもって、今後われわれ両国は相互に断じて戦争に入らぬことの願望の象徴とみるものである」
ヒトラーはそれを読むと、異議なく署名した。
チェンバーレンはイギリスに帰ってきた。彼は着陸したヘストンで、ヒトラーに署名させた共同声明を振って見せ・・・彼の車が歓呼の声を上げる群衆の間を縫って空港から帰るとき、彼は同席しているハリファック(外相)に言った、「すべては3カ月以内に解決する」
ミュンヘン協定に関する三日間の討議の冒頭に、海相ダフ・クーパーは辞職の演説をした。・・・これは、保守党内の仲間割れであった。・・・私はいまでもよく覚えているが、私が「われわれは徹頭徹尾敗北を喫したのだ」と言ったとき、沸き起こった怒号のために、次の言葉をはじめる前にしばらく立ち往生をしなければならなかった。
P234
すでに説明したように、全国的計画による軍需品生産は四か年計画である。第一年は無生産、第二年はごく少量、第三年は多量、そして第四年は洪水。この期間におけるヒトラーのドイツは・・第三年か、第四年であった。
一方イギリスはまだ非常事態に立っていない状態で、はるかに弱い刺激と、はるかに小さい規模で動いているだけだった。1938、39年のイギリスのあらゆる種類の軍事費は3億400万ポンドに達したが、ドイツは少なくとも15億ポンドであった。
P239
チェンバーレンは依然として、世界情勢に著しい改善をもたらすためには、独裁者たちと個人的に接触するほかないと信じていた。独裁者たちの決定はすでになされていることを、彼はほとんど知らなかった。・・・チアーノ(ムッソリーニの娘婿 外相)の日記の中で、イタリアでは陰でイギリスとイギリス代表について語っていたことを読むと、赤面せざるを得ない。「あの人たちは、とムッソリーニは言った。フランシス・ドレークやその他の、大冒険をしてイギリス帝国を作り上げたような人たちと出来が違うのだ。結局金持ちの何代も後の疲れ切った息子たちさ」
P242
ミュンヘン会議の決定によってその要塞線を奪われ、危機に瀕しているチェコ政府に、最後通牒(さいごつうちょう)を送った。プラハに侵入したドイツ部隊は、無抵抗の国を完全にその手におさめた。私は、下院の喫煙室でイーデンとすわっているとき、この事件を論じた夕刊が来たのを覚えている。われわれのように、幻影を持たず、熱心に事実を示してきた者でさえ、この無法な突然の暴力には驚いた。・・・