普段通っている職場で、最近、手作り月刊新聞を作っている。先月から、テーマ、「私の親離れの時」、で随筆をメンバーが順番に書くことに。今度は私の番で、亡くなって、8年たつ父の号泣の思い出を書いた。懐かしい、50年近く前の出来事。
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父の号泣 ~私の親離れの時~
私は今、66歳、私の親離れは、小学校6年の頃と思っていた。思春期になり、体格も父親を上回り始め、両親のアドバイスも、ただの面倒な小言と感じられて、学校など家の外では、陽気でよくしゃべる少年、家に帰ると、親と顔を合わせるのも話すのもうっとうしいと、自分の部屋に籠城状態。そんな親子関係のまま高校2年生に。夕飯時、気まずい空気が流れたことがあった。父兄懇談に来た母に、担任の先生が「お宅の息子さんは、クラスの委員長だが、あまりクラスの面倒を見ず、勉強ばかりしている。文科系に進んだ方が良いと思っていたが、理科系の方がいいかも」と言っていたと、母が話題に。父の顔色が変わったのが分かったが、何も言わなかった。籠城の効果。その少しあと、母校の野球の応援に出かけたが敗戦で、くたびれて我が家に。メリヤス店を両親は営んでおり、母から丁度、問屋から届いたメリヤスの荷物を開梱して、家の中に運んでおくようにとの指示。疲れているのにと、荷物を足蹴にして、ふくれっ面で、だらだらと作業に。そのことを母が父に話した途端、父が店の商品をひっくり返して暴れ始め、あっけにとられた家族や客を無視して、家の奥に。私はそのまま、商品を整理して、段ボール箱を倉庫に運んでいくと、そこの土間で、父が子供のように寝転んで号泣。これには驚く。父は、担任の先生の私への意見を耳にして、利己的な人間になるなと、私に説教したかったのだとすぐ理解。それからは、籠城は続けたが、「自分の成績・利益」と「周りの人の利益」の選択になると、父の希望する通り、人の利益優先で人生の選択をするようになった。今に続いている。振り返ると私の人生を豊かにする、いい選択を取れてきたように思う。この父の号泣が、私が親の意見を容れた最後の時で、この時が、本当の親離れだったと最近、思います。
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父の号泣 ~私の親離れの時~
私は今、66歳、私の親離れは、小学校6年の頃と思っていた。思春期になり、体格も父親を上回り始め、両親のアドバイスも、ただの面倒な小言と感じられて、学校など家の外では、陽気でよくしゃべる少年、家に帰ると、親と顔を合わせるのも話すのもうっとうしいと、自分の部屋に籠城状態。そんな親子関係のまま高校2年生に。夕飯時、気まずい空気が流れたことがあった。父兄懇談に来た母に、担任の先生が「お宅の息子さんは、クラスの委員長だが、あまりクラスの面倒を見ず、勉強ばかりしている。文科系に進んだ方が良いと思っていたが、理科系の方がいいかも」と言っていたと、母が話題に。父の顔色が変わったのが分かったが、何も言わなかった。籠城の効果。その少しあと、母校の野球の応援に出かけたが敗戦で、くたびれて我が家に。メリヤス店を両親は営んでおり、母から丁度、問屋から届いたメリヤスの荷物を開梱して、家の中に運んでおくようにとの指示。疲れているのにと、荷物を足蹴にして、ふくれっ面で、だらだらと作業に。そのことを母が父に話した途端、父が店の商品をひっくり返して暴れ始め、あっけにとられた家族や客を無視して、家の奥に。私はそのまま、商品を整理して、段ボール箱を倉庫に運んでいくと、そこの土間で、父が子供のように寝転んで号泣。これには驚く。父は、担任の先生の私への意見を耳にして、利己的な人間になるなと、私に説教したかったのだとすぐ理解。それからは、籠城は続けたが、「自分の成績・利益」と「周りの人の利益」の選択になると、父の希望する通り、人の利益優先で人生の選択をするようになった。今に続いている。振り返ると私の人生を豊かにする、いい選択を取れてきたように思う。この父の号泣が、私が親の意見を容れた最後の時で、この時が、本当の親離れだったと最近、思います。