石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

遅ればせながら…

2006年10月01日 | Weblog
遅ればせながら、只今9月17日に行った、栃木県藤岡町の石仏巡りをHPの方へ掲載いたしました。ご笑覧下さい。
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9月30日の石佛調査記

2006年10月01日 | Weblog
今回は、佐野市在住の高橋氏に又しても感謝!感謝!の石佛調査でした。
昨日30日は、当所の主な目的が曼珠沙華の花咲く田園風景写真撮影と、暫くぶりに足利市へ足を踏み入れることにありました。
 まずは、栃木市柏倉町の琴平神社周辺の田園地帯を訪ねる。予想していたとおり、特に大楽寺周辺が曼珠沙華の群落となっていて、それはもう一言で「見事!」と言うほかない。早朝の1時間ばかりをここで過ごしてから、ようやく次の目的地へと移動するも、その目的地が定まらないまま、取りあえず1年以上もご無沙汰している岩舟町の岩舟山高勝寺さんへ、いささか遠回りをして向かう。

 住職さんの所へご挨拶に伺うと、まだ挨拶もしていないのに顔を見るなり「おお、来るのを待ってました!」と言わんばかりに倉庫を開け、この一年余で新たに境内地から見つかった「板碑」破片を一輪車に一台ほど提供してくれる。これぞまさしく「恐れ入谷の鬼子母神」で、今日は挨拶程度のつもり出来たのだが、そういう訳にはいかなくなってしまった。どうやら今日は、ここから一歩も出られそうもないと覚悟を決めて、まずは水道を借りて水洗いから始める。それにしても、それらの板碑拓本を一人で取るとなるととても今日一日では終わりそうもなく、途方に暮れてしまう。
 そこで、「困ったときの友達頼み」で、佐野市の高橋氏に拓本取りの助けを求める。そんな高橋氏、こちらの魂胆を見透かして拓本道具一式を持参のうえ、お饅頭まで持って来る。

 早速拓本取りを開始しようという時に、住職さんが今度は段ボール一箱を抱えて再登場。何が入っているかと覗けば、そこには古文書が雑然と詰まっている。聞けば、古いふすまを焼却しようとしたら、そのふすまの下貼りにそれらが出てきたとのこと。処分する前に、その意向を聞きたくて私達のために取っておいたらしい。早速に高橋氏と中をかき混ぜて適当なものを拾い読みすれば、なかなかに面白い物がある。特に、長年不明だった(これまで記録が焼失してしまったために誰も分からぬままに過ごしてきた)、当寺岩舟山高勝寺が何時の時代から真言宗から天台宗に改宗したかの謎が解ける文書が見つかる。文書下部が破けていて、全文は読めぬまでも初代から九代までの僧侶の名前がその年と共に記されている。その文書によって、当寺も天海僧正によっての天台宗改宗への流れの中で改修された事が判り、しかも東叡山から派遣されたことも判明する。いずれにせよ、それらの古文書は段ボール箱ごと高橋氏が預かって整理してくれることになる。また、まだ処分せずに残っている古いふすまの処理には、以後高橋氏が立ち会って行うことを住職さんと取り決める。

さて、板碑調査に戻るが、今回は完全品は1基もない。また、三分の二以上は陰刻部分のない板碑破片であることから、今回は拓本を含めて調査はしないことにする。また、今回も拓本は表と裏面も取ることにしたが、準備不足のためにノギスを持ってこなかったので、厚みは測定しないこと、併せて両側面の写真も撮影しないこととする。これなら、何とか今日中に拓本取りが完了するという了見もあってのことである。
 その結果を簡単に述べると、高勝寺さん板碑の最古銘は元徳元年(1329)となっていたが、永仁年間(1293~1298)の物が出てきたこと。また、題目塔として文明年間の年号が見つかるなど、今回調査した12基の中にも面白い物が含まれていた。いずれにせよ、今回もそれらの板碑調査整理には多くの時間がかかるだろう。
さて、来る10月6日の金曜日には、高勝寺さんにある絵巻物を見るために東京から絵巻物専門とする大学教授が来るので、ぜひ来てくださいと住職さんから誘いを受けるが、生憎私には仕事がある。そこで、ここも一番、高橋氏にでばってもらって現場立ち会い人となてもらう。高橋氏なら、必要な項目は写真に撮るは、メモる、はで、後日の参考となる資料を沢山残してくれるので、私としても心強い限りである。そして今日一日の感謝を込めて御礼を述べ、午後3時半過ぎに岩舟山の山を下りてそれぞれ帰路につく。高橋さん、この場を借りて御礼申し上げます。今度は、藤岡町の最後の詰めの調査にご同行下さい。
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