昨、10月21日は、佐野市在住の高橋氏と岩舟山高勝寺で落ち合い、藤岡町を中心とした周辺の石造物巡りを行ってきました。
最初に、高勝寺さんで9月末に行った板碑調査の報告書を提出、そしてその折りに高橋氏が預かっていた古文書の整理したものを提出。その古文書の整理は、高橋氏の努力により詳細な目録付きとなっていて、住職さんと共にその仕事ぶりの完璧さに呆れるばかりでした。その古文書の中から、今まで全く不明だった岩舟山の真言宗から天台宗への改宗時期が判明し、同時に岩舟地蔵の開帳に関する重要な事項が判りました。これは、今回のHP上に少しだけ掲載しようと思っています。
さて、高勝寺さんを辞して向かうは、藤岡町の歓喜院跡にある碑塔の、今回で4回目にあたる調査です。碑塔調査を始める前に地元の方から聞き込み調査して、その歓喜院の先祖という方に巡り会えまして、非常に貴重な話しを伺うことが出来ました。これも、この手の調査方法を得手とする高橋氏が記録しました。
ついでだからと、高橋氏の専門とする金物、つまり歓喜院入口にある火の見櫓へ登って、そこにある半鐘を調査。高橋氏一人が登っただけで揺れている火の見櫓、私はその下でのんびり見学としました。
今日は、この歓喜院跡にある碑塔調査を完了すべくやって来たのだが、調べるほどに梵字が多数現れて、どうにも収拾つかなくなる。特に、側面に出てくる梵字真言らしき文字には閉口して、半分ヤケクソとなって調査する。たった2基の、それも梵字文字だけを撮影したコマ数は有に60コマを越える有様。何しろ、高橋氏が水洗いする度に新たな梵字が出てくるのだから、その撮影も飛び飛びとなって、これでは前後左右が判らなくなってしまうと苦笑する以外にない。それでも、高橋氏がこの造塔に関わったと思われる僧侶の墓碑をついでに調査してくれたので、今日は大きな収穫が得られた。
時計は既に12時を過ぎているが、昼食とするにはその食べるものを買い忘れていて食べることが出来ない。こうなると意地で、ここの調査が終わるまで昼抜きとして続行し、結局、谷中村の慰霊塔が有る所でお昼にしたのは1時も既に遠く過ぎていた。
1時間近くのんびりしてから、いつかは訪ねたいと思っていた、「葭立修提碑」を見に、町の中へ戻ってから見に行く。その碑は私が想像していた以上に大きな碑であった。出来れば拓本を取りたいと思っていたが、下部が埋もれていることと風があることに加え、彫刻としては文字に勢いがなく今回は断念。しかし、資料的価値は大きく、やはり拓本として手元に置いておきたい1基である。
次に、潮音寺の宝篋印塔調査に向かうが、生憎と住職さん不在で諦め、近くの双体道祖神を見に行く。(これも今回のHPに掲載しましょう)
この辺で、今日の石造物巡りは終わりを迎えたが、帰路は岩舟町へ戻るので高橋氏が墓地で見つけておいてくれた碑塔調査に向かう。静和駅へのメイン道路沿いから少し南へ入った共同墓地にそれらは並んでいた。もちろん私にとっては未見の碑塔類、喜び勇んで調査と写真撮影が終わると既に3時半を過ぎているので今日はここまでとする。
今回も、またしても高橋氏にはお世話になりっぱなし。深く感謝しつつ「和泉」の信号で二手に分かれて又の再会を願う。高橋さん、お疲れさまとありがとうございました。
最初に、高勝寺さんで9月末に行った板碑調査の報告書を提出、そしてその折りに高橋氏が預かっていた古文書の整理したものを提出。その古文書の整理は、高橋氏の努力により詳細な目録付きとなっていて、住職さんと共にその仕事ぶりの完璧さに呆れるばかりでした。その古文書の中から、今まで全く不明だった岩舟山の真言宗から天台宗への改宗時期が判明し、同時に岩舟地蔵の開帳に関する重要な事項が判りました。これは、今回のHP上に少しだけ掲載しようと思っています。
さて、高勝寺さんを辞して向かうは、藤岡町の歓喜院跡にある碑塔の、今回で4回目にあたる調査です。碑塔調査を始める前に地元の方から聞き込み調査して、その歓喜院の先祖という方に巡り会えまして、非常に貴重な話しを伺うことが出来ました。これも、この手の調査方法を得手とする高橋氏が記録しました。
ついでだからと、高橋氏の専門とする金物、つまり歓喜院入口にある火の見櫓へ登って、そこにある半鐘を調査。高橋氏一人が登っただけで揺れている火の見櫓、私はその下でのんびり見学としました。
今日は、この歓喜院跡にある碑塔調査を完了すべくやって来たのだが、調べるほどに梵字が多数現れて、どうにも収拾つかなくなる。特に、側面に出てくる梵字真言らしき文字には閉口して、半分ヤケクソとなって調査する。たった2基の、それも梵字文字だけを撮影したコマ数は有に60コマを越える有様。何しろ、高橋氏が水洗いする度に新たな梵字が出てくるのだから、その撮影も飛び飛びとなって、これでは前後左右が判らなくなってしまうと苦笑する以外にない。それでも、高橋氏がこの造塔に関わったと思われる僧侶の墓碑をついでに調査してくれたので、今日は大きな収穫が得られた。
時計は既に12時を過ぎているが、昼食とするにはその食べるものを買い忘れていて食べることが出来ない。こうなると意地で、ここの調査が終わるまで昼抜きとして続行し、結局、谷中村の慰霊塔が有る所でお昼にしたのは1時も既に遠く過ぎていた。
1時間近くのんびりしてから、いつかは訪ねたいと思っていた、「葭立修提碑」を見に、町の中へ戻ってから見に行く。その碑は私が想像していた以上に大きな碑であった。出来れば拓本を取りたいと思っていたが、下部が埋もれていることと風があることに加え、彫刻としては文字に勢いがなく今回は断念。しかし、資料的価値は大きく、やはり拓本として手元に置いておきたい1基である。
次に、潮音寺の宝篋印塔調査に向かうが、生憎と住職さん不在で諦め、近くの双体道祖神を見に行く。(これも今回のHPに掲載しましょう)
この辺で、今日の石造物巡りは終わりを迎えたが、帰路は岩舟町へ戻るので高橋氏が墓地で見つけておいてくれた碑塔調査に向かう。静和駅へのメイン道路沿いから少し南へ入った共同墓地にそれらは並んでいた。もちろん私にとっては未見の碑塔類、喜び勇んで調査と写真撮影が終わると既に3時半を過ぎているので今日はここまでとする。
今回も、またしても高橋氏にはお世話になりっぱなし。深く感謝しつつ「和泉」の信号で二手に分かれて又の再会を願う。高橋さん、お疲れさまとありがとうございました。