8月4日も、日光市の庚申塔調査に行きました。今回は、まず最初に四本龍寺の7月7日に行った調査の再確認と、夕方に降り出した雨のために中途半端になった拓本取りです。今日は、先週と違って上手い具合に高曇りなのを良いことに、既に手拓済みの承應2年塔まで余計に取ってしまい時間の無駄遣い。それにしても、肝心な万治2年塔は交名部分が読めないのにはマイッタ!。この分では、全て交名は不読としなければならないだろう。碑面が旨く乾かないので墨入れするまでの時間を、隣の護摩壇などを撮影して時間を過ごす。その為、8時半からいるにも関わらず、この四本龍寺を撤収したのは11時を過ぎていた。少しばかり遊びすぎたと、急いで金谷ホテル手前の磐裂神社へ行って、前回に採寸忘れであった貞享4年塔の各部位を計ってから、最初の駐車場へ戻る。
次の予定は、稲荷町の虚空蔵に倒れている延宝塔の調査である。丁度お昼なので駐車場で食べるか悩んだが、取りあえずは虚空蔵へ来てしまう。そして問題の延宝塔を見て、その主銘文から紀年銘まで故意に削り取られているのを目にして、まずはこいつをかたづけなければならないと、昼食前に手拓を始めてしまう。それにしても酷い庚申塔である。苦労して、それでも何とか物にする。そして日蔭に広げて解読してみると、紀年銘は延宝八庚申天九月四日となっている。庚申当たり日になるが、そうするとこの虚空蔵には同じ紀年銘を持つ庚申塔がこれで3基あることになる。中山氏の呆れる顔を思い出しながら、一人ニンマリしてしまう。こうして手拓を始めてしまうと空腹感も忘れてしまい、以前に手拓しながら不満足な庚申塔の再手拓を開始してしまう。そして気がつけば午後も2時を過ぎていた。慌てて、ここで熱々のラーメンを作って遅い昼食とする。
以上で、日光市内の庚申塔調査は一応の区切りがついたことになる。もちろん、このまま素直に庚申塔調査を終了する私ではない。本日の、本当の目的はこれからで、それは旧日光市役所裏、薬師堂にある庚申塔再調査である。特に、これまでは酷い苔に全身覆われていたので精査をパスしていた庚申塔に主眼を置いている。そこに見える拝侍二猿姿は、どう見ても延宝以前の古い姿をしているので、それを今日は精査するのが最大の目的なのである。といっても、恐らく全身が現れて拓本が取れる状態までにするには最低でも1時間は碑塔掃除と磨きに精を出さなければならないだろう。庁舎の水場を何度か往復し、まずは全身を水洗い。続いて金属ブラシを使って、執拗な苔落とし。それでも根をしっかり張っている苔は、一本づつ爪で挟んで抜き取っていく。そんなこんなで、結局は掃除だけで1時間半ほど掛かってしまった。ちなみに、この庚申塔は今までに私を含めて誰も読んでいない物。画仙紙を水貼りした状態で、早くも紀年銘は寛文三年と出てくる。しかも嬉しいことに「汝等所行是菩薩…」で始まる偈頌まで刻まれているのが判る。今日もまたまた大ヒットである。日光での新たな寛文庚申塔の初確認である。ここでも、「俺も早く見たいヨ」という中山氏の顔がまた浮かんでくる。
いずれにせよ、全体を水洗いしてしまったので画仙紙取り外すまでには時間があるので境内の他の碑塔を眺めやる。と、その中に気になる駒型石がある。
日月輪があって、下部に蓮華があり、種子は「バーン」である。紀年銘はと見ると、寛文八戊申天 二月中旬」。ここに拝侍二猿姿があれば文句ないのだが…。そんな独り言を言いながら、念のために主銘文を読んでみると「奉供養時三年」とあるではないか。ここへはこれまでに何度も来、挙げ句の果てに他人様を案内したこともありながら、今まで全く無視していた碑塔であった。「奉供養時三年」とあらば、これはもう間違いなく庚申供養三年一坐のことであり、その三年一坐の庚申供養が成就しての建立塔ではないか!。さらにこの塔を「庚申塔」とする決定的石文が「分布諸舎利」「而起無量塔」なる妙法蓮華経出典の偈頌が刻まれていたことだった。しかも「施主」「敬白」文字に交名まで加わっているのだから、もうこれは誰が何と言おうと「庚申塔」、しかも初確認のこれも寛文庚申塔となった。
ところで、今日の庚申塔調査は準備がおろそかだったので、前日に用意する筈だった画仙紙を机の上に置き忘れてしまっていたので、先ほどで手持ち用紙がなくなってしまった。あるのは、ちぎった中途半端な端切れだけである。それでもこれは是非とも手拓が欲しい物。そこで仕方なく、端切れを集めて水貼りして何とか重要な部分は全て手拓する。そして画像処理用の写真を撮って大満足。何しろ、初確認の庚申塔が今日は2基もあったのだから。時計を見れば、既に5時を過ぎている。今日の成果は120%の出来である。汗で全身グショグショに濡れ、朝からの休憩なしでの調査に疲れは感じるが、充実した思いで冷房なしのポンコツ車に乗って帰路についた。
そう、ここまでは良かったのである。
帰宅して、先ず最初にしたことはシャワーを浴びてサッパリすること。そして普段なら、早速今日の調査の整理やら清書を始めるのだが、何しろ今日は疲れた。加えて、送られてきた石仏図書や手紙などが机の上にあったので、それらに目を通して全ては明日の日曜日に繰り越した。
そして翌朝、涼しい内にと手拓した用紙を広げて部分手拓した物は張り合わせて一つに仕上げていく作業に順次取りかかる。そして最後になって、どうも一基分の手拓用紙が足りないのに気づく。しかもそれは、寛文三年銘の、あの水洗いから始まって苦労した庚申塔である。家内も加わって、あちこち探すが見つからない。
昨日のことを振り返っていくと、最後になって突然現れた寛文八年銘の庚申塔出現に舞い上がり、寛文三年銘の庚申塔に墨入れしたまま取り外すのを忘れたようだ。何のことはない、大チョンボの発生である。現地へ行けば、綺麗に水貼りされて墨入れも終わった庚申塔が、白く輝いて建っているだろう。その光景を想像しただけで恥ずかしくも滑稽になり、急いで今から取りに行くことにする。「な~に、日光までは片道1時間」と、笑いながら出かけたものの、また石仏巡りや観光客はまずもって滅多に行くところではないので、必ず昨日のままであることを信じながらも、こればかりは実際に行ってみなければ話しにならないヒヤヒヤもの。それでも、現地に行ってみれば、多くの碑塔の中でそれだけが白く輝いて昨日のまま画仙紙に包まれて立っていた。この嬉しい気持ち、皆さんならどう表現しますか?。そう、思わず「バンザ~イ」です。そして帰宅して、それだけで今日は昨日に続いて日光へ行って来た、と新たな寛文塔の調査報告を兼ねて中山氏に電話連絡したら、腹を抱えて笑っていた。そして猛暑が終わり、涼しくなったら、そんな馬鹿な場所へ案内することを約束する。
次の予定は、稲荷町の虚空蔵に倒れている延宝塔の調査である。丁度お昼なので駐車場で食べるか悩んだが、取りあえずは虚空蔵へ来てしまう。そして問題の延宝塔を見て、その主銘文から紀年銘まで故意に削り取られているのを目にして、まずはこいつをかたづけなければならないと、昼食前に手拓を始めてしまう。それにしても酷い庚申塔である。苦労して、それでも何とか物にする。そして日蔭に広げて解読してみると、紀年銘は延宝八庚申天九月四日となっている。庚申当たり日になるが、そうするとこの虚空蔵には同じ紀年銘を持つ庚申塔がこれで3基あることになる。中山氏の呆れる顔を思い出しながら、一人ニンマリしてしまう。こうして手拓を始めてしまうと空腹感も忘れてしまい、以前に手拓しながら不満足な庚申塔の再手拓を開始してしまう。そして気がつけば午後も2時を過ぎていた。慌てて、ここで熱々のラーメンを作って遅い昼食とする。
以上で、日光市内の庚申塔調査は一応の区切りがついたことになる。もちろん、このまま素直に庚申塔調査を終了する私ではない。本日の、本当の目的はこれからで、それは旧日光市役所裏、薬師堂にある庚申塔再調査である。特に、これまでは酷い苔に全身覆われていたので精査をパスしていた庚申塔に主眼を置いている。そこに見える拝侍二猿姿は、どう見ても延宝以前の古い姿をしているので、それを今日は精査するのが最大の目的なのである。といっても、恐らく全身が現れて拓本が取れる状態までにするには最低でも1時間は碑塔掃除と磨きに精を出さなければならないだろう。庁舎の水場を何度か往復し、まずは全身を水洗い。続いて金属ブラシを使って、執拗な苔落とし。それでも根をしっかり張っている苔は、一本づつ爪で挟んで抜き取っていく。そんなこんなで、結局は掃除だけで1時間半ほど掛かってしまった。ちなみに、この庚申塔は今までに私を含めて誰も読んでいない物。画仙紙を水貼りした状態で、早くも紀年銘は寛文三年と出てくる。しかも嬉しいことに「汝等所行是菩薩…」で始まる偈頌まで刻まれているのが判る。今日もまたまた大ヒットである。日光での新たな寛文庚申塔の初確認である。ここでも、「俺も早く見たいヨ」という中山氏の顔がまた浮かんでくる。
いずれにせよ、全体を水洗いしてしまったので画仙紙取り外すまでには時間があるので境内の他の碑塔を眺めやる。と、その中に気になる駒型石がある。
日月輪があって、下部に蓮華があり、種子は「バーン」である。紀年銘はと見ると、寛文八戊申天 二月中旬」。ここに拝侍二猿姿があれば文句ないのだが…。そんな独り言を言いながら、念のために主銘文を読んでみると「奉供養時三年」とあるではないか。ここへはこれまでに何度も来、挙げ句の果てに他人様を案内したこともありながら、今まで全く無視していた碑塔であった。「奉供養時三年」とあらば、これはもう間違いなく庚申供養三年一坐のことであり、その三年一坐の庚申供養が成就しての建立塔ではないか!。さらにこの塔を「庚申塔」とする決定的石文が「分布諸舎利」「而起無量塔」なる妙法蓮華経出典の偈頌が刻まれていたことだった。しかも「施主」「敬白」文字に交名まで加わっているのだから、もうこれは誰が何と言おうと「庚申塔」、しかも初確認のこれも寛文庚申塔となった。
ところで、今日の庚申塔調査は準備がおろそかだったので、前日に用意する筈だった画仙紙を机の上に置き忘れてしまっていたので、先ほどで手持ち用紙がなくなってしまった。あるのは、ちぎった中途半端な端切れだけである。それでもこれは是非とも手拓が欲しい物。そこで仕方なく、端切れを集めて水貼りして何とか重要な部分は全て手拓する。そして画像処理用の写真を撮って大満足。何しろ、初確認の庚申塔が今日は2基もあったのだから。時計を見れば、既に5時を過ぎている。今日の成果は120%の出来である。汗で全身グショグショに濡れ、朝からの休憩なしでの調査に疲れは感じるが、充実した思いで冷房なしのポンコツ車に乗って帰路についた。
そう、ここまでは良かったのである。
帰宅して、先ず最初にしたことはシャワーを浴びてサッパリすること。そして普段なら、早速今日の調査の整理やら清書を始めるのだが、何しろ今日は疲れた。加えて、送られてきた石仏図書や手紙などが机の上にあったので、それらに目を通して全ては明日の日曜日に繰り越した。
そして翌朝、涼しい内にと手拓した用紙を広げて部分手拓した物は張り合わせて一つに仕上げていく作業に順次取りかかる。そして最後になって、どうも一基分の手拓用紙が足りないのに気づく。しかもそれは、寛文三年銘の、あの水洗いから始まって苦労した庚申塔である。家内も加わって、あちこち探すが見つからない。
昨日のことを振り返っていくと、最後になって突然現れた寛文八年銘の庚申塔出現に舞い上がり、寛文三年銘の庚申塔に墨入れしたまま取り外すのを忘れたようだ。何のことはない、大チョンボの発生である。現地へ行けば、綺麗に水貼りされて墨入れも終わった庚申塔が、白く輝いて建っているだろう。その光景を想像しただけで恥ずかしくも滑稽になり、急いで今から取りに行くことにする。「な~に、日光までは片道1時間」と、笑いながら出かけたものの、また石仏巡りや観光客はまずもって滅多に行くところではないので、必ず昨日のままであることを信じながらも、こればかりは実際に行ってみなければ話しにならないヒヤヒヤもの。それでも、現地に行ってみれば、多くの碑塔の中でそれだけが白く輝いて昨日のまま画仙紙に包まれて立っていた。この嬉しい気持ち、皆さんならどう表現しますか?。そう、思わず「バンザ~イ」です。そして帰宅して、それだけで今日は昨日に続いて日光へ行って来た、と新たな寛文塔の調査報告を兼ねて中山氏に電話連絡したら、腹を抱えて笑っていた。そして猛暑が終わり、涼しくなったら、そんな馬鹿な場所へ案内することを約束する。