石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

8月19日は、鹿沼市へ!

2007年08月20日 | Weblog
2007年8月19日(日)
 朝から今日は、石仏巡りに行くつもりもなくグダグダと過ごしていたが、それでも9時頃になると暑いからと言って何もしないことに耐えられなく、車に乗り込んでしまった。当然ながら行き先も考えていなかったので、取りあえずは近くの鹿沼市へ向かう。鹿沼市と言っても、そうそう同じ所ばかり行くのも能がないと、拾数年ぶりに久我地区の石裂山方面へ向かう。車を運転しながら、道沿いに出てくる碑塔のどれが調査済みで未見のものの区別がすっかりできないほど、暫くぶりの道だったが道沿いの荒川縁に「石裂山」と書かれた四角柱灯篭が目に入る。おそらくこんな所の灯篭は、昔は記録に付けていなかった筈と立ち寄り、本日初めての碑塔調査となる。紀年銘は文化2年ながら、そこには「日光御神領」ともあるから、この久我地区は日光の神領だったことが判る、地誌的に何となくモウケ物を入手した気分。
 その後もあちこちを覗くが、暑さもあって記録用紙に書き込む気力がないまま、所在地だけは頭に記憶させる。そして寺畑バス停を過ぎた所で、道路沿いに共同墓地となっている観音堂らしき物を目にする。ここは、タブンまだ来ていないだろうと感じて車を路肩に止める。狭い県道なので、私が路肩に車を止めると行き交う車は交互通行となってしまうが、まあそれほど交通量の多いところでもないので気にしないことにしよう。
 早速覗いてみると、それは観音堂ではなく「地蔵堂」となっていて、奉納された石燈籠に「虫地蔵尊」という余り聞き慣れない地蔵尊の名前がある。また、この地蔵堂は当地の霊場巡り札所としての番号が記されている。
 そしてそこに、四角柱に刻まれた拝侍猿塔があった。しかかもその拝侍二猿は、塔の上部にいる。当鹿沼地方で、拝侍二猿が上部にいる塔は延寶年間の庚申塔である。その、気になる紀年銘どころか、他の石文も碑面が摩耗していて全く読めない。石文が読めないとなると、どうにもムキになる性格の私。早速、車からタワシ一式やら手拓道具一式を抱えてくる。そしてまずは水洗い。隣に小川が流れているので水の心配はいらないので、全体を綺麗に水洗いしてあげる。それにしてもその碑面は酷いアバタ面である。取りあえずは試験的に手拓を開始するが、出来上がった画仙紙には殆ど文字が浮かんでこない。真夏の太陽がガンガンと当たっている碑面ゆえに、また場所が悪いので、一文字づつの判読が不可能である。もう一度、手拓のやり直しである。暖められた碑面と直射日光で、水貼りするや乾きだしてくる。何とも忙しい手拓だが、先ほどの試験手拓よりも墨を濃く入れなければならないので大忙し。手拓が終わるや取り外し、地蔵堂の縁側に広げて見ると、何となく今度は文字らしき陰影が出てきた。しかも、延寶らしき文字と偈頌までもが…。
 「よ〜しっ、今日はこれで終わりにしよう!」と、思わぬ収穫に大喜びで今日の石仏巡りを止めて帰路に付く。そして帰宅し、早速に春日部市の中山氏に電話報告。実は、ここのところの毎回の石仏巡り、その度に中山氏に電話連絡していたので、そろそろ余りにも迷惑だろうから止めにしようと思っていたのだが、延宝らしき庚申塔が出てきたからにはそうも言っていられない。電話口に出た中山氏も、「この暑いのにまた行ったの!」と完全に呆れている。そして、またまた新たな江戸前期の庚申塔、しかも偈頌付きが出てきたのでは、「もう栃木県のリスト書き換えは当分諦めた!」と、嬉しそうに笑っている。いずれにせよ、9月になってからの一緒の庚申塔巡りの中に、この庚申塔も追加することにした。そしてその夜は、手拓した物を解読。しかし、全部は解明出来ないし、紀年銘などに確信の持てない部分が出てくる。一応、延寶四年銘としたが、中山氏の力を借りて一緒に再確認することにしよう。