2007年9月15日の石仏巡りは、春日部市在住の中山氏と一緒に栃木県鹿沼市から日光市までの、中山氏未見の寛文塔2基と延宝塔3基を案内かたがた、楽しい一日を過ごしてきました。例のように、東武日光線・新鹿沼駅で8時50分に落ち合ってから、最初の鹿沼市上久我寺畑地区にある地蔵堂へ直行。近くの農家宅へ挨拶してから早速に拝侍二猿型の角柱庚申塔の調査開始。紀年銘は先月8月に手拓して完璧に読んでいるので問題ないが、主銘文は相変わらず摩耗が激しく読めないので簡単に諦めたが、その上に刻まれている梵字に不明なところがあったので、今回も手拓をして一緒に読むことにする。しかし、何としても頭置き字の最初が相変わらず読めない。「□・バン・ウン・タラーク・アク」。ウ〜ム、「タラークの次にはキリークがあって当然なのだが…」と、二人して首を傾げるも、手拓して出てこないのだから仕方がない。それでは頭にある不読種子が「キリーク」かと何度も見直すが、どう見てもキリークの形には見えない。そしてついに、これ以上のこの庚申塔調査を断念する。
前回の私と同じく、中山氏もそばにある「虫地蔵尊」という文字に注目して、「これは珍しい」記録を取ったり写真を撮ったりしている。ご挨拶に伺ったご主人も見えられたので、「虫地蔵とは、子供の疳の虫かそれとも石裂神社の信仰の一つである害虫の虫送りのどちらかと尋ねれば「子供の方」と答えてくれる。そして地蔵堂の扉を開けてその本尊様を見せていただいて、私としてはビックリ。虫地蔵尊というのに、その本尊様は木像の如意輪観音様だった。しかし、中央には立派な厨子に納まっている石造地蔵様がある。思うに、いつの間にか本尊様が地蔵から如意輪様にと、言い伝えが変わってしまったのだろう。
次に向かったのは、鹿沼市街地の上材木町・厳島神社にある拝侍型二猿庚申塔。下部が土中に埋まっているので、銘文を読むには腹這いにならなければいけない。前回の、この庚申塔調査は延宝までは読んでいたがそれ以上の紀年銘が読めないので、今日は中山氏と一緒に再挑戦である。面倒だがここでも再び手拓し、それを地面に腹這いになった中山氏が読むことになる。二人でああでもない、こうでもない、と地面に臥して眺めているのを隣のご主人が見て笑っている。結局、紀年銘は「延宝」としながらもその後が判らず、取りあえずは断念して次の目的地である日光市下鉢石町の薬師堂へ向かう。
薬師堂へ着いたのが、丁度12時なので石段に腰掛けての昼食と雑談時間とする。二人の漫談掛け合いは昼食時間から始まって延々と2時過ぎまで続いてしまう。他人様が見たら、石仏巡りと言いながら何と無駄な時間を過ごしているのだろうと、大笑いしたのを機に、ようやく腰を上げて庚申塔を見ることになる。最初は、寛文八年銘の「奉供養時三年」とあるものから。その碑面には、「庚申」の文字も「二猿」の姿もないが、そこに添えられている偈頌「分布諸舎利」「而起無量塔」から、また種子「バーン」等も考慮して「これは一座塔」と二人の意見が一致して庚申塔にする。次に、寛文三年の拝侍二猿型庚申塔の精査を行う。これも今回で三度目となる手拓を行いつつ、二人で真剣に文字を読むが、紀年銘の干支が出てこない。また月日の文字は判るものの、肝心な数字が判らない。仕方なく、主銘文が読めて、紀年銘の年号がはっきり読めるので「良し」として終了する。さらに中山氏は、この薬師堂で承應三年銘の手洗鉢があったと、目的外の収穫に喜んだ。
残るは、稲荷町にある延宝八年塔の再確認だけである。そこに穿たれている種子が「アーンク」なのか「バーンク」なのかを二人の目で確定するためである。そしてその倒壊しているその庚申塔を目に前にして、中山氏は「これは初めて見た」という。また、その庚申塔の余りにも酷い状態に愕然としている。何しろその庚申塔は、意図的に種子と主銘文が削り取られているので、そのままではそれが延宝八年の紀年銘を持つ庚申塔とは気づかぬ代物なのである。以前に私が手拓した物を中山氏には見せていたが、その現物に接して驚きながらも、文字が全く判らないので車から霧吹きを持ってきて文字を浮かび上がらせながら、二人で判読。そしてこれも、二人の意見が一致して本日の石仏巡りは終了となり、虚空蔵を3時半頃に離れる。当然その後も新鹿沼駅までの約1時間の道のりは、車中で掛け合い漫談を繰り返しながら戻り、さらに足らぬと中山氏が乗る電車までには時間があるのを口実に、その待ち時間をまたしても冷房のない車の中で馬鹿話しに花を咲かせている私達だった。
いずれにせよ今回で、栃木県の江戸前期までの庚申塔は完全に終了。「完全」という言葉は石仏調査では滅多に使えないのだが、現時点では、「もしかしたら…」という他に思いつく庚申塔が私には全てなくなってしまったのだから仕方がない。これから先、江戸前期迄の庚申塔が出てくるとするなら、それは全くの偶然性と未知の山の中で出会う以外にないと思っているからである。
※帰宅してから寝るまでの間、鹿沼市上材木町の庚申塔の今日の手拓とその前に取った拓本を並べて解読作業に没頭。その結果、何とか「延宝六戊午天□月□日」と判読出来たので、今日の朝一番で中山氏に電話し、昨日の御礼と併せて御報告。
以上、今回の石仏巡りは以上のような次第で特別にご紹介する画像はありませんので、次回までお楽しみに…。
前回の私と同じく、中山氏もそばにある「虫地蔵尊」という文字に注目して、「これは珍しい」記録を取ったり写真を撮ったりしている。ご挨拶に伺ったご主人も見えられたので、「虫地蔵とは、子供の疳の虫かそれとも石裂神社の信仰の一つである害虫の虫送りのどちらかと尋ねれば「子供の方」と答えてくれる。そして地蔵堂の扉を開けてその本尊様を見せていただいて、私としてはビックリ。虫地蔵尊というのに、その本尊様は木像の如意輪観音様だった。しかし、中央には立派な厨子に納まっている石造地蔵様がある。思うに、いつの間にか本尊様が地蔵から如意輪様にと、言い伝えが変わってしまったのだろう。
次に向かったのは、鹿沼市街地の上材木町・厳島神社にある拝侍型二猿庚申塔。下部が土中に埋まっているので、銘文を読むには腹這いにならなければいけない。前回の、この庚申塔調査は延宝までは読んでいたがそれ以上の紀年銘が読めないので、今日は中山氏と一緒に再挑戦である。面倒だがここでも再び手拓し、それを地面に腹這いになった中山氏が読むことになる。二人でああでもない、こうでもない、と地面に臥して眺めているのを隣のご主人が見て笑っている。結局、紀年銘は「延宝」としながらもその後が判らず、取りあえずは断念して次の目的地である日光市下鉢石町の薬師堂へ向かう。
薬師堂へ着いたのが、丁度12時なので石段に腰掛けての昼食と雑談時間とする。二人の漫談掛け合いは昼食時間から始まって延々と2時過ぎまで続いてしまう。他人様が見たら、石仏巡りと言いながら何と無駄な時間を過ごしているのだろうと、大笑いしたのを機に、ようやく腰を上げて庚申塔を見ることになる。最初は、寛文八年銘の「奉供養時三年」とあるものから。その碑面には、「庚申」の文字も「二猿」の姿もないが、そこに添えられている偈頌「分布諸舎利」「而起無量塔」から、また種子「バーン」等も考慮して「これは一座塔」と二人の意見が一致して庚申塔にする。次に、寛文三年の拝侍二猿型庚申塔の精査を行う。これも今回で三度目となる手拓を行いつつ、二人で真剣に文字を読むが、紀年銘の干支が出てこない。また月日の文字は判るものの、肝心な数字が判らない。仕方なく、主銘文が読めて、紀年銘の年号がはっきり読めるので「良し」として終了する。さらに中山氏は、この薬師堂で承應三年銘の手洗鉢があったと、目的外の収穫に喜んだ。
残るは、稲荷町にある延宝八年塔の再確認だけである。そこに穿たれている種子が「アーンク」なのか「バーンク」なのかを二人の目で確定するためである。そしてその倒壊しているその庚申塔を目に前にして、中山氏は「これは初めて見た」という。また、その庚申塔の余りにも酷い状態に愕然としている。何しろその庚申塔は、意図的に種子と主銘文が削り取られているので、そのままではそれが延宝八年の紀年銘を持つ庚申塔とは気づかぬ代物なのである。以前に私が手拓した物を中山氏には見せていたが、その現物に接して驚きながらも、文字が全く判らないので車から霧吹きを持ってきて文字を浮かび上がらせながら、二人で判読。そしてこれも、二人の意見が一致して本日の石仏巡りは終了となり、虚空蔵を3時半頃に離れる。当然その後も新鹿沼駅までの約1時間の道のりは、車中で掛け合い漫談を繰り返しながら戻り、さらに足らぬと中山氏が乗る電車までには時間があるのを口実に、その待ち時間をまたしても冷房のない車の中で馬鹿話しに花を咲かせている私達だった。
いずれにせよ今回で、栃木県の江戸前期までの庚申塔は完全に終了。「完全」という言葉は石仏調査では滅多に使えないのだが、現時点では、「もしかしたら…」という他に思いつく庚申塔が私には全てなくなってしまったのだから仕方がない。これから先、江戸前期迄の庚申塔が出てくるとするなら、それは全くの偶然性と未知の山の中で出会う以外にないと思っているからである。
※帰宅してから寝るまでの間、鹿沼市上材木町の庚申塔の今日の手拓とその前に取った拓本を並べて解読作業に没頭。その結果、何とか「延宝六戊午天□月□日」と判読出来たので、今日の朝一番で中山氏に電話し、昨日の御礼と併せて御報告。
以上、今回の石仏巡りは以上のような次第で特別にご紹介する画像はありませんので、次回までお楽しみに…。