天気予報では、今年最後の暑さとなるとのことなので、避暑も兼ねて相変わらず日光へ向かう。何しろ日光の石仏は1990年代迄にに調べた物がほとんどのため、昨年から改めて再調査を始めたので、まだまだ行かなければならないところが沢山ある。それでも幸いに、日光の碑塔所在地は、そのほとんどを過去に行っているので所在地探しに悩まないで良いことである。
さてそんな今日は、最初に松原町の松原公民館へ行く。ここへは今年の8月15日に、佐野市の高橋久敬氏と待ち合わせをしたところだが、そこにある碑塔のほとんどはまだ再調査していなかったからだ。また、公民館の裏から登る天王山へもついでに行き、庚申塔3基(内2基は拝侍二猿型庚申塔)をも精査する。特に、天王山での調査は涼しい風があって快適で、ついつい休みすぎて終わってみれば既に10時半を過ぎていた。
次いで、安川町の磐裂神社へ向かう。ここへは今夏に訪ねたばかりだが、その時は2基の庚申塔を精査しただけで終わっていたので、今日はこの境内にある全碑塔の再調査である。といいつつ、逆光で写真が撮れない物や碑塔掃除が嫌になって(沢山の碑塔掃除に途中で飽きてしまって)、数基を再調査せず仕舞いとなってしまう。特に安永八年銘庚申塔にある「或有起石廟…」で始まる偈頌の手拓するのが目的だったが、碑塔磨きに飽きて次回へと繰り越してしまう。ここも、涼風が気持ちよく流石は日光だけあって涼しく過ごせて長居をし過ぎ、午後1時頃に境内で昼飯とする。そんなこんなで、この磐裂神社を離れたのが午後1時半過ぎ。今日の予定では、この後はまだ見つからない浄光寺にあって良い筈の残り1基の庚申塔探しと、憾満ケ淵の未調査庚申塔を訪ねる予定だったが、大幅に時間が過ぎているので省略し、本町の八幡神社へ向かう。
この八幡神社へ車を置いて、今回はここから歩いて寂光の滝への道を進む。その寂光の滝への道途中にある庚申塔を、ほんとうに暫くぶりに訪ねる為である。それらの庚申塔は、まず県外の方には場所が判らないところにある物。まずは、名前だけ?の小さな祠が祀ってある八坂神社境内にて2基の自然石庚申塔を調査する。この地にある、あと2基の大きな自然石巳待塔(種子表記)も調査するつもりだったが、これも碑塔掃除が大変なのでついつい「こんな好い加減な石仏調査ではいけないんだよナ〜」と独り言をつぶやきつつパスしてしまう。
そして今日のメイン調査地である、ここも小さな祠のある県外の人では判りにくい大輪社へ行き、碑塔掃除用の大きな水の入ったザックを降ろす。今日は、ここにある4基の拝侍二猿型庚申塔の精査が目的だった。時間を見計らって来ただけに、写真を撮るには最高の条件である。4基とも、まずは綺麗に碑塔磨きをしてから、全体像はもちろん各部分毎の写真も撮影する。宝永6年・7年塔と享保3年・14年塔があり、主銘文の出だしも「奉信礼」「奉修」「奉敬礼」と申し分のない物。しかも4基のうち3基は拝侍二猿姿が上部に位置している。だが惜しむらくはその全てに蓮華がなかったが、それでも拝侍二猿型庚申塔としてはその二猿の姿が良く、大満足。ヤブ蚊に喰われながら、ここを終えて車まで戻ったところで、既に時計は3時を過ぎている。
今日の予定では、さらにここから清滝そして細尾町へと巡る予定だったが完全にタイムオーバー。空の雲行きもおかしくなってきたので日光中心地へと戻り、まだ調査の終えていない下鉢石町の薬師堂へ行く。というのも、もう少しで雨が降り出しそうなので、もし上手い具合に雨が降り出したら、その雨を利用してまだ碑塔磨きの終わっていない物を一気に済ませてしまおうという魂胆である。そして境内に来て、まずは一休みと先週に中山正義氏と一緒に来て時間を過ごした所へ腰掛ければ、そこに見慣れた拓本墨の入れ物が置いてある。それは間違いなく私の物、しかも上物の油墨の方である。どうやら先週、馬鹿話に夢中になって置き忘れた物である。「マッタクッ!」と、自分の間抜けぶりに呆れながらザックにしまい込む。雨が降り出しそうで一向に降らぬので、仕方なしに市役所で汲んできた水で、本当にどうしようもない庚申塔の苔剥がしやら碑塔磨きをしていると突然の大粒雨が落ちてくる。シメシメ、この調子でもっと降ってこいと願ったが、それはほんの通り雨であった。たった2基の庚申塔磨きで、手持ちの水を使い果たしてしまったので「今日はここまで!」として切り上げ、帰宅する。
そして帰宅し、記録用紙を整理してみれば写真のないものや採寸を忘れた物などが数基出てくる。まったく、石仏巡りと言いながら半分は里の暑さから逃れて来たような、好い加減な石仏調査の気の緩みに自分ながら苦笑する。
※今回の写真等のHP掲載は、少し時間を頂きます。恐らく木曜日頃まで!
さてそんな今日は、最初に松原町の松原公民館へ行く。ここへは今年の8月15日に、佐野市の高橋久敬氏と待ち合わせをしたところだが、そこにある碑塔のほとんどはまだ再調査していなかったからだ。また、公民館の裏から登る天王山へもついでに行き、庚申塔3基(内2基は拝侍二猿型庚申塔)をも精査する。特に、天王山での調査は涼しい風があって快適で、ついつい休みすぎて終わってみれば既に10時半を過ぎていた。
次いで、安川町の磐裂神社へ向かう。ここへは今夏に訪ねたばかりだが、その時は2基の庚申塔を精査しただけで終わっていたので、今日はこの境内にある全碑塔の再調査である。といいつつ、逆光で写真が撮れない物や碑塔掃除が嫌になって(沢山の碑塔掃除に途中で飽きてしまって)、数基を再調査せず仕舞いとなってしまう。特に安永八年銘庚申塔にある「或有起石廟…」で始まる偈頌の手拓するのが目的だったが、碑塔磨きに飽きて次回へと繰り越してしまう。ここも、涼風が気持ちよく流石は日光だけあって涼しく過ごせて長居をし過ぎ、午後1時頃に境内で昼飯とする。そんなこんなで、この磐裂神社を離れたのが午後1時半過ぎ。今日の予定では、この後はまだ見つからない浄光寺にあって良い筈の残り1基の庚申塔探しと、憾満ケ淵の未調査庚申塔を訪ねる予定だったが、大幅に時間が過ぎているので省略し、本町の八幡神社へ向かう。
この八幡神社へ車を置いて、今回はここから歩いて寂光の滝への道を進む。その寂光の滝への道途中にある庚申塔を、ほんとうに暫くぶりに訪ねる為である。それらの庚申塔は、まず県外の方には場所が判らないところにある物。まずは、名前だけ?の小さな祠が祀ってある八坂神社境内にて2基の自然石庚申塔を調査する。この地にある、あと2基の大きな自然石巳待塔(種子表記)も調査するつもりだったが、これも碑塔掃除が大変なのでついつい「こんな好い加減な石仏調査ではいけないんだよナ〜」と独り言をつぶやきつつパスしてしまう。
そして今日のメイン調査地である、ここも小さな祠のある県外の人では判りにくい大輪社へ行き、碑塔掃除用の大きな水の入ったザックを降ろす。今日は、ここにある4基の拝侍二猿型庚申塔の精査が目的だった。時間を見計らって来ただけに、写真を撮るには最高の条件である。4基とも、まずは綺麗に碑塔磨きをしてから、全体像はもちろん各部分毎の写真も撮影する。宝永6年・7年塔と享保3年・14年塔があり、主銘文の出だしも「奉信礼」「奉修」「奉敬礼」と申し分のない物。しかも4基のうち3基は拝侍二猿姿が上部に位置している。だが惜しむらくはその全てに蓮華がなかったが、それでも拝侍二猿型庚申塔としてはその二猿の姿が良く、大満足。ヤブ蚊に喰われながら、ここを終えて車まで戻ったところで、既に時計は3時を過ぎている。
今日の予定では、さらにここから清滝そして細尾町へと巡る予定だったが完全にタイムオーバー。空の雲行きもおかしくなってきたので日光中心地へと戻り、まだ調査の終えていない下鉢石町の薬師堂へ行く。というのも、もう少しで雨が降り出しそうなので、もし上手い具合に雨が降り出したら、その雨を利用してまだ碑塔磨きの終わっていない物を一気に済ませてしまおうという魂胆である。そして境内に来て、まずは一休みと先週に中山正義氏と一緒に来て時間を過ごした所へ腰掛ければ、そこに見慣れた拓本墨の入れ物が置いてある。それは間違いなく私の物、しかも上物の油墨の方である。どうやら先週、馬鹿話に夢中になって置き忘れた物である。「マッタクッ!」と、自分の間抜けぶりに呆れながらザックにしまい込む。雨が降り出しそうで一向に降らぬので、仕方なしに市役所で汲んできた水で、本当にどうしようもない庚申塔の苔剥がしやら碑塔磨きをしていると突然の大粒雨が落ちてくる。シメシメ、この調子でもっと降ってこいと願ったが、それはほんの通り雨であった。たった2基の庚申塔磨きで、手持ちの水を使い果たしてしまったので「今日はここまで!」として切り上げ、帰宅する。
そして帰宅し、記録用紙を整理してみれば写真のないものや採寸を忘れた物などが数基出てくる。まったく、石仏巡りと言いながら半分は里の暑さから逃れて来たような、好い加減な石仏調査の気の緩みに自分ながら苦笑する。
※今回の写真等のHP掲載は、少し時間を頂きます。恐らく木曜日頃まで!