石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2008年2月9日も栃木市の石仏巡り

2008年02月10日 | Weblog
 2008年2月9日、午後から関東一円に雪が降るとの予想だが、どこへも出かけずに雪が降ってくるのを待っているだけでは能がないと、今回も8時10分には既に栃木市木野地町の石仏調査に取りかかっていた。指が少しかじかむものの、さほど寒さを感じることなく順調に進み午前中だけで地域内の石造物調査は終了してしまった。次は、栃木市でも碑塔数の多い川原田町内へ入る。この地区も、過去に何度も来ている地区だが、精査は終わっていなかったので、今日でこの地区の調査目鼻を付けようと思ってのことである。碑塔調査に熱中している私は寒さを感じないが、流石に今日はいつもと違って人影が少なく、情報を聞き出せるような農作業などをしている人や、ご老人が散歩をしていずに困ったが、そこは持って生まれた図々しさで農家を訪ねては情報収集などをしながら町内を巡って調査にあたる。その中の傑作としては、昔に来たときは写真が撮れた宝永四年銘の一石六地蔵塔が鍵のかかった小屋の中にあって、こりゃ〜困った。と佇んでいるとおばあさんが通りかかって、話しかけてくる。そこで、鍵があるので写真が撮れなくて悩んでいたのですよと話すと、鍵なら私が当番で持っているから、家へ戻って持ってきてあげるという。その行為に甘んじて小屋を開け、それ以外にはどうやっても撮影できない六地蔵塔を無事に入手出来た。
 そんなこんなで、朝からの木野地町とこの川原田町だけで既に52基の石造物を調査できてしまった。まだ、午後も1時を過ぎたばかりだというのに、である。
 今回の石仏調査、前回に懲りて総数で最高60基迄とすることに決めていたので、残るは数基。そこで、まだ未訪問地である野中町へ入る事にする。そして目的地とするは、地福院である。第一の目的は、私の求めている宝篋印陀羅尼経の刻まれた宝篋印塔有無を確認すること。到着して最初に目に入ったのが、当然ながら境内本堂脇に建っている宝篋印塔。しめしめ、これで今日は時間をかけてゆっくり読むことが出来ると庫裡に伺えばお留守のようである。洗濯物が干してあるところを見ると、そう遠くへは行っていまいと少しだけ待つことにして境内の庚申塔やその他の石造物調査を、横目で宝篋印塔を見ながら行う。しかし、一向に帰宅しないのに待ちくたびれて、後日の再訪問として離れる。この時点で調査数は56基。あと4基で今日のマキシムの60基に到達かと、独り言を呟きながら適当に町内を巡っていると薬師堂と共同墓地を兼ねた所に着いたので覗いてみる。ここで、2基の十九夜塔に1基の馬頭観音塔を入手して59基。いよいよ最後の1基、どこかに落ちていないかと、隣の商店へ飛び込めば、直ぐ近くに公民館があってその裏の墓地内にも十九夜さんがあると思ったと、教えてくれる。早速行ってみれば、なるほど墓地内の一角に捨てられ同然にあった。ここで3基をゲットして遂に最大の今日の目標数であった60基を超えた!。時計は、3時に2分前の2時58分。もうヤメタッ、と車に乗り込んでここから帰宅することにした。空は、そんな私を待っていたかのように、雪が降り出してくる。自宅のある宇都宮へと北上するに従い雪は益々強く降り出して、まるで雪国へ来たようである。途中からは、その為に車が渋滞し始めて、普段なら30分余りで着いてしまう宇都宮への道も約1時間近く掛かってしまった。
 まあ、それでも普段なら出かけない空模様にも係わらず、62基もの調査が出来たのだからバンバンザイである。これで、栃木市の碑塔調査は、あと500基ほど調べれば大凡の概要が分かるだろう。一日50基にして、あと10回ほど。な〜んだ、5月中には終わってしまいそうである。これでは、途中で余所の市町村へも少しチョッカイが出せそうである。
※今回も、前回同様に調査した碑塔の内容は圧倒的に十九夜塔。余り面白くもないので、HPの方へ掲載すべきか否かで悩んでいるところです。そして次回の栃木市調査は、さらに数を減らして1日で最大50基までにしましょう。何しろ帰宅してからの清書・整理が大変ですので…。
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