仕事で、栃木県那須烏山市(旧烏山町)へ出かけついでに、それだけでは往復の時間がもったいないと、かねてより実見しなければと思っていた市貝町の昭和五十五年庚申塔を訪ねる事にする。そして遠い寄り道として、その場所があるという市貝町田野辺地区へ向かう。事前に、ただそれだけの情報なので所在地を見つけるまでは大変だと、その地区のお寺さん(曹洞宗・慈眼寺)へ立ち寄る。丁度、住職さんが庭の掃除中で、早速話を切り出せば、「嗚呼、それは私が中心となって建立したものだ」となって、一発で所在地把握。それどころか、宇都宮から来たのでは一緒に行って案内しましょうとなって、住職さんを車に乗せた私の車は庚申塔の前でストップ。確かにそこには、いかにも昭和庚申年塔然とした平石に刻まれた庚申塔が建立されていた。ついでに、隣りに建つ萬延庚申塔も調査したのは言うまでもない。その後、住職さんが、ついでだから内の物知り爺さんを訪ねて、当地の庚申について話を聞こうと言うことになり、地元のお寺さん住職という立場を利用して数軒の農家を訪ねては、お茶をご馳走になりながら色々な昔話を聞くことが出来た。その中で、私にとっては何とも嬉しい話が、「この地域での庚申信仰は、「塚まるめ」と言って、石塔を建てる以上に大きな塚を築くことに意味がある」という話だった。つまり、庚申信仰に於ける「まるめ」についての話が暫くぶりに聞くことが出来たのである。一般に「庚申まるめ」といえば、庚申塔を庚申縁年に庚申塚へ建立する意味に用いられているとしていたが、ここで新たな「塚まるめ」という、庚申石塔を建てるよりも大きな庚申塚そのものを築く意味で使用されていたのである。この、「塚まるめ」という言葉を聞いて何となく理解できたのが、この周辺地域では非常に庚申塔そのものが少ない理由が、ここにあったのである。庚申塔よりも、庚申塚を築くことという事に重きがあったのである。
もちろん今も、その数は少なくなったといっても、各地で庚申講は続けられていることを聞くことが出来たのも大きな収穫であった。そんな、今も庚申講が続いているにあっても、庚申塚は築かれても庚申塔は滅多なことでは建立しないことも判り、当地では庚申塔を建立すること自体が珍しい事例であると言うこともである。そんなこんなで、結局は午前中たっぷりとこの地で過ごしてしまったが、私としては実に実り多き半日であった。勿論その後は、昼食も取らずに本日の目的である仕事に急いで戻ったのは言うまでもない。