古くは1997年以来と言う場所を含めて、今回から栃木県西方町の追跡石仏巡りを開始しました。今回はその手始めと言うこともあり、西方町の中心をなす金崎地区から開始です。もちろんそのほとんどは地図を見なくてもどこにあるかを知っているので、出足は順調で次から次へと再確認をかねて写真撮影を行いました。しかし、今回からの西方町碑塔調査最大の目的は、まだ出会えぬ碑塔を探し出すことにありますので、過去に調査した箇所と言えども碑塔の数を再チェックしながら、また銘文の未読部分精査等でそれなりに結構時間が掛かりました。特に、千手院跡の宝篋印塔には思わず苦笑いです。というのも、それは軸部分に文字は無しとしていたものが、よく見ると本当に浅く文字らしきものがあり、手拓などを合わせて読んでみれば、四面のうちの二面から宝篋印陀羅尼経の中の一節が出てきたのです。マッタクッと、自分の不甲斐なさにガッカリでしたが、それでも私にとってのお宝を1基ゲットしたので満足でした。また過去に訪れた時は、まだ正面の像容や文字があった碑が、今回来て見るとものの見事に剥がれ落ちていて、何の碑かが全く分からない状態になっていました。こうした碑塔に限って、以前の写真は撮影していないものなのです。これも今回の反省材料で、碑塔は全てを写真に撮っておく必要性を実感しました。そんなこんなで、午後2時頃には金崎地区を終えてしまい、続いて隣の元地区へと入りました。ここは2002年に調査済みですが、途中で終わっている地区なので慎重に地区内探索です。そのために石仏調査は少しも進まず、また、過去に調査していた箇所を未調査箇所と勘違いして再調査するなどの間抜けぶりを発揮したため、午後4時にはあきれて本日の石仏調査を終了しました。それにしても、暑かったです。天気予報では雨の心配もあったのですが、全くの空振りとなりじとじとした暑さだけが身に堪えました。そんな調子で、本日西方町で新たに確認調査できた碑塔は10数基という有様ですが、まあそれも仕方がないことでしょう。そんな訳で、次回は今回の続きとなる西方町元地区から再開です。そうそう、掲載した写真は朝一番で乗り込んだ東武日光線金崎駅東側の通りに面した墓地内にある碑塔の一部で、十九夜塔を真ん中にして並ぶ部庚申塔と甲子塔です。
古くは1997年以来と言う場所を含めて、今回から栃木県西方町の追跡石仏巡りを開始しました。今回はその手始めと言うこともあり、西方町の中心をなす金崎地区から開始です。もちろんそのほとんどは地図を見なくてもどこにあるかを知っているので、出足は順調で次から次へと再確認をかねて写真撮影を行いました。しかし、今回からの西方町碑塔調査最大の目的は、まだ出会えぬ碑塔を探し出すことにありますので、過去に調査した箇所と言えども碑塔の数を再チェックしながら、また銘文の未読部分精査等でそれなりに結構時間が掛かりました。特に、千手院跡の宝篋印塔には思わず苦笑いです。というのも、それは軸部分に文字は無しとしていたものが、よく見ると本当に浅く文字らしきものがあり、手拓などを合わせて読んでみれば、四面のうちの二面から宝篋印陀羅尼経の中の一節が出てきたのです。マッタクッと、自分の不甲斐なさにガッカリでしたが、それでも私にとってのお宝を1基ゲットしたので満足でした。また過去に訪れた時は、まだ正面の像容や文字があった碑が、今回来て見るとものの見事に剥がれ落ちていて、何の碑かが全く分からない状態になっていました。こうした碑塔に限って、以前の写真は撮影していないものなのです。これも今回の反省材料で、碑塔は全てを写真に撮っておく必要性を実感しました。そんなこんなで、午後2時頃には金崎地区を終えてしまい、続いて隣の元地区へと入りました。ここは2002年に調査済みですが、途中で終わっている地区なので慎重に地区内探索です。そのために石仏調査は少しも進まず、また、過去に調査していた箇所を未調査箇所と勘違いして再調査するなどの間抜けぶりを発揮したため、午後4時にはあきれて本日の石仏調査を終了しました。それにしても、暑かったです。天気予報では雨の心配もあったのですが、全くの空振りとなりじとじとした暑さだけが身に堪えました。そんな調子で、本日西方町で新たに確認調査できた碑塔は10数基という有様ですが、まあそれも仕方がないことでしょう。そんな訳で、次回は今回の続きとなる西方町元地区から再開です。そうそう、掲載した写真は朝一番で乗り込んだ東武日光線金崎駅東側の通りに面した墓地内にある碑塔の一部で、十九夜塔を真ん中にして並ぶ部庚申塔と甲子塔です。