真夏なのか、それとも残暑の最後の足掻きなのか、兎に角暑い。その中を、今年の腰痛のために残してしまった宇都宮市内の碑(いしぶみ)探索に出掛ける
今回は、その中の個人宅にあるだろうと思われる碑と決めて。最初は日光街道を北上し、293号線と交わる「徳次郎(とくじろう)」(※以前は「とくじら」と読んだが、今は読める人が少なくなったので「とくじろう」と変更された)地区へ向かう。この周辺には車を止める場所がないので、富屋地区のセンターへ無断で車を置かせてもらうことにして、後は歩くことにする。そして目標とする碑が個人宅内の敷地内にあるのを発見。早速、ご挨拶に伺うがお留守のようで誰も出てこないところか、広い敷地内にも人影さえない。まあ、今回は所在地が分かっただけでも良しとして、出直すことにしよう。それでも、碑表だけは図々しく写真を撮らせて頂く。通りに出ると、道路の反対側に農家の方が自転車に乗ってこれから田圃へ行くところ。慌てて挨拶して止め、話を聞くことにする。と、その方は、私が訪ねた家の親戚の方だったので、丁寧に話に乗っていただけた。特に、苗字が「外鯨」。これを「そとくじら」さんと読むのか、「とくじら」さんと読むのかで悩んでいたが、お陰で「とくじら」で良いと分かった。「徳次郎」に「外鯨」さんが居るなんて、何とも愉快な話だが、以外とこの辺から、江戸末期に会津から4人の同志と出てきて、彼がここに住み着くようになったのは、そんな読みが地名と同じだという簡単な理由からかも知れない、と一人思う。
それにしても、その碑はまた馬鹿でかい。本体だけで3メートルはあるだろう。今度来るときは、その銘文を読むことになると、覚悟を決めて元のセンターへ戻る。
次は、駒生町にあるというやはり個人の頌徳碑である。自宅にあるだろうと、その地区の大きな農家を訪ねて聞き取り調査をする。そして数件目にして、それは我が家の裏にあった家だが、今は完全に引き払って全く関係ない他人が住んでいるという。そしてその敷地内には、そんな碑は建っていなかったとも言う。これには困った。仕方なく、その方と色々話をしている内に、そう言えば元の消防小屋跡地に何かは知らぬが今も大きな石が建っている、という。しめた!。それだ!と直感し、その場所を教えてもらっていそいそと向かえば、それが正しく探していた頌徳碑だった。しかし、それは朝方に見た碑以上に大きい。しかも、完全に北向きに設置されているので、それでなくてもまぶしい真夏のような太陽が逆光となって、どうしようもない。それでも、目の前にある碑を見て逃亡するには情けなく、帽子を深めに被って上部文字は半分見えないけれども一行ずつ丁寧に読んでいくが、下部はまた高い土台の上に乗っているので、いちいち土台から降りて読まなければならない。全部で24行。つまり土台に登って上を眺め、降りてはまた下部の銘文読みを48回は最低でも繰り返したことになる。その後は亦、不確かな文字の再確認。ホントッ、労の多い調査であるが、だからこそ誰もしない。つまり、私がしなくてはならない。という、変な使命感に燃えてこれからも当分は続けていこうと思う。なお、ここへ掲載した写真は、最初に訪れて留守だった方の碑である。
次回は、どこへいこうか? 思案中である。それにしても一日でたったの二基。何か、情けない気持ちになる。
今回は、その中の個人宅にあるだろうと思われる碑と決めて。最初は日光街道を北上し、293号線と交わる「徳次郎(とくじろう)」(※以前は「とくじら」と読んだが、今は読める人が少なくなったので「とくじろう」と変更された)地区へ向かう。この周辺には車を止める場所がないので、富屋地区のセンターへ無断で車を置かせてもらうことにして、後は歩くことにする。そして目標とする碑が個人宅内の敷地内にあるのを発見。早速、ご挨拶に伺うがお留守のようで誰も出てこないところか、広い敷地内にも人影さえない。まあ、今回は所在地が分かっただけでも良しとして、出直すことにしよう。それでも、碑表だけは図々しく写真を撮らせて頂く。通りに出ると、道路の反対側に農家の方が自転車に乗ってこれから田圃へ行くところ。慌てて挨拶して止め、話を聞くことにする。と、その方は、私が訪ねた家の親戚の方だったので、丁寧に話に乗っていただけた。特に、苗字が「外鯨」。これを「そとくじら」さんと読むのか、「とくじら」さんと読むのかで悩んでいたが、お陰で「とくじら」で良いと分かった。「徳次郎」に「外鯨」さんが居るなんて、何とも愉快な話だが、以外とこの辺から、江戸末期に会津から4人の同志と出てきて、彼がここに住み着くようになったのは、そんな読みが地名と同じだという簡単な理由からかも知れない、と一人思う。
それにしても、その碑はまた馬鹿でかい。本体だけで3メートルはあるだろう。今度来るときは、その銘文を読むことになると、覚悟を決めて元のセンターへ戻る。
次は、駒生町にあるというやはり個人の頌徳碑である。自宅にあるだろうと、その地区の大きな農家を訪ねて聞き取り調査をする。そして数件目にして、それは我が家の裏にあった家だが、今は完全に引き払って全く関係ない他人が住んでいるという。そしてその敷地内には、そんな碑は建っていなかったとも言う。これには困った。仕方なく、その方と色々話をしている内に、そう言えば元の消防小屋跡地に何かは知らぬが今も大きな石が建っている、という。しめた!。それだ!と直感し、その場所を教えてもらっていそいそと向かえば、それが正しく探していた頌徳碑だった。しかし、それは朝方に見た碑以上に大きい。しかも、完全に北向きに設置されているので、それでなくてもまぶしい真夏のような太陽が逆光となって、どうしようもない。それでも、目の前にある碑を見て逃亡するには情けなく、帽子を深めに被って上部文字は半分見えないけれども一行ずつ丁寧に読んでいくが、下部はまた高い土台の上に乗っているので、いちいち土台から降りて読まなければならない。全部で24行。つまり土台に登って上を眺め、降りてはまた下部の銘文読みを48回は最低でも繰り返したことになる。その後は亦、不確かな文字の再確認。ホントッ、労の多い調査であるが、だからこそ誰もしない。つまり、私がしなくてはならない。という、変な使命感に燃えてこれからも当分は続けていこうと思う。なお、ここへ掲載した写真は、最初に訪れて留守だった方の碑である。
次回は、どこへいこうか? 思案中である。それにしても一日でたったの二基。何か、情けない気持ちになる。