石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

昨2011年9月18日は、栃木県壬生町方面の碑調査でした

2011年09月19日 | Weblog
朝から、秋の空となった好天。暫くぶりに宇都宮から遠出して栃木県壬生町と上三川町の、碑(いしぶみ)調査に出掛けました。特に今回は、壬生町の常楽寺にある「山本蕉逸先生」の墓碑に刻まれた銘文調査を主目的として出掛けました。山本蕉逸先生は、江戸末期に江戸から日光方面、そして宇都宮へ来て、かの坂下門下の事件にて獄中の身となり獄死した純粋な勤皇の志士の師でもあり、その後に壬生藩の儒者としてこの地で没しました。それだけに、山本先生の墓碑銘をなんとしても手拓して残しておきたいと思っての訪問です。住職さんに手拓の許可を得たものの、いざそれを手拓する段になって悩む、その墓碑の状態の悪さ。誰も墓碑を磨く人もいないので、表面は汚れでザラザラ。しかも傷みもそこかしこにある状態。まともに手拓を開始したのでは、銘文まで辿り着くにはほど遠いので、取りあえずは四面の掃除から始まる。本当なら、水吹きをして磨き上げたいのだが、墓域内の墓碑とあらば、それもなかなか難しいことなので、乾いた亀の子タワシでゴソゴシ磨く。もちろん、完全な手拓を採るには納得しかねる状態だが、仕方なく手拓を開始する。しかし今度は、南風の強風が吹き出してきて、その風が邪魔して碑面と完全に密着していない所から風が入り込む。そのままの状態で何とか仕上げた。まあ、銘文が読めれば私にとってはその出来不出来は問題外。それでも、ここで2時間強を過ごしてしまった。いずれにせよ、これからその銘文を解読するのが楽しみであり、本日の成果は半分以上の大満足である。※上記に掲載した写真が、その山本蕉逸先生の墓碑正面。
その勢いで、今度は壬生町からはさらに東へ走った上三川町へ向かう。その上三川町で、2基の碑(いしぶみ)を記録する。そこでもまた、大笑いする事があった。それは、碑を探し歩いていて一向に見つからないので、稲刈り真っ盛り中の農家の方の手を止めさせて尋ねれば、私の後を指さして笑っている。そして振り向けば、今私が通ってきた道路沿いの奥にはっきりとそれと分かる大きな碑が建っていた。いずれにしても、この地で一気に2基の碑を調査できた。
続いて、宇都宮最後の藩主「戸田忠友」に家老として仕えた「戸田香園」の書になる「河島易親」の墓碑探しとなる。この墓碑探しは苦労するだろうと、少なからぬ覚悟をしていたが、その墓碑を誌したのも宇都宮で優秀な門弟を輩出した「梅園春男」先生が記しているので、この墓碑も何としても確認したかったのである。そこで、上三川では白鷺神社の祠官をしていたというので、ダメ元で白鷺神社を最初に訪ねる。すると、若い祠官さんが神主さんに電話で問い合わせてくれ、それが何と隣の墓地の正面にあるという意外な結果だった。こんなにも簡単に見つかるとは、と軽い驚きで見に行くとその状態は最悪。加えて風が更に強くなって、仕方なく手拓は用紙を短めに裁断して部分採りを繰り返して何とか三面をものにした。
そして時間をみれば、既に3時。まだ昼食も取っていない。腰の状態が落ち着いていることに調子を合わせていると帰宅してから痛い目に遭うと、今日はこのくらいにして調査を終了することにしよう。兎に角、気づけばなお空腹感を覚える。いずれにしても、今日は大豊作。一日で大形の碑(いしぶみ)を2基に、手拓をしない限り銘文解読が出来ぬ古い墓碑2基を手に入れたのだから!。
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