石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2011年11月13日は、栃木県塩谷町と矢板市の石仏巡りでした

2011年11月16日 | Weblog

 今回は、午後から栃木県さくら市(旧氏家町)の荒井寛方記念館(タゴール生誕150周年記念展を開催中)にて、タゴール関係の方々と会う為に出かけることにしたので、今回はその前に今まで行こうと思いつつもなかなか行けずにいた塩谷町の「二荒山」碑=戸田香園揮毫碑と矢板市の倉掛にある山の中の記念碑の手拓をしようと、いつもの朝とは違って早朝に家を出る。しかし、昨夜までの雨のために宇都宮郊外へ進むに従って先が全く見えないような濃い霧となって、車の速度は自転車並になってしまう。これには困ったが、さりとて無謀運転も出来ずにジィ~と我慢比べの運転のままに進んでようやく朝日とともにその霧も晴れてくる。そして目的地の塩谷町大久保地区の星宮神社へ辿り付き、ヤレヤレと言った面持ちで調査開始。といっても、既にこの山岳碑は1994年に調査済みのために写真撮影が主目的となる。その後は、早朝の深い霧が嘘のようにあがり真っ青な快晴空、気分を良くしてこれから向かう矢板市までの途中の石仏見学とする。それらも当然ながら1990年代に調査済みとはいえ、それから随分と時間も立っているので改めての見学であるが、その場へ立てばその当時の調査のことが思い出されるので、まだまだ記憶は衰えていないようだと、一人で苦笑する。掲載した写真は、そんな塩谷町のメイン道路沿いにある「男体山」や「象頭山」碑などが並んでいる風景である。
 時計が10時を過ぎたので道草を止め、本日の主目的である倉掛へ向かう。そして、車を林道の入り口へ無理やり止め、長靴に履き替えてから準備万端整えて山の中へと入る。実はその山道、私は過去に(これも随分前の話だが)来ているので鼻歌交じりで入れるが、初めての人にとってはどこから入れば良いのか大いに悩む場所である。
 約15分くらいで倉掛峠(といっても、今は名前だけで実際は山の持ち主が時折使用するだけの山道)へ到着。早速、碑面をいつものように磨いてから画仙紙を水張りするが、昨夜来の雨で碑面は水分をタップリと含んでいる。この分では、墨入れ出来るまでの状態になるには大変な待ち時間となると考え、出来る限り水分を用いないで水張りをした。それでも、山の中はまだ霧が残っていて陽が差して来ないので、乾いた手拭で何度も水分を取り去るも石の中から染みてくる水分で一向に墨入れが出来ない。仕方なしと持久戦に持ち込み、誰一人として通らない山の中での大休止を取る。そして何とか墨入れが出来るようになったのは、お昼を知らせるうるさいサイレンが止まってからのことだった。何しろ今回のこの碑(いしぶみ)は、江戸幕末の豪商であった佐野屋孝兵衛の三代目である菊地教中の書である「倉掛村新路記」。宇都宮藩との繋がりが強かったとはいえ、菊地教中の手になる揮毫碑は数が少ないので、私にとってはぜひともその拓本が欲しかった次第である。また、その内容にしても全文を正しく最後まで記した書籍類もないので(といいながらなぜか市の文化財に指定されている面白さ)ゆえに、その内容もこの機会に知りたかった。
 こうして墨入れも終わり、早く車に戻って昼食しようとあせり、碑面から剥がす時に上部が切れてしまった。嗚呼、またやってしまったと、後悔するのは毎度のことながら、手にしてみると画仙紙は重さが実感出来るほどの水分タップリ。今度は持ち帰るのに悩んで、新聞紙を広げてその上に置き、そのまま両手で持って帰ることにする。何ともこっけいな姿だが、それだけの価値ある拓本だと、自分ではようやくにして手に入れた手拓だけに心はウキウキであった。以下、その画像などは別HPの石仏巡り記の方へ掲載予定です。

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