石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2012年7月8日の鹿沼市石仏巡り記で島 文翼の墓碑を発見!

2012年07月11日 | Weblog



 7月8日も、相変わらず栃木県鹿沼市の石仏巡りに出かけましたが、最初に行った三幸町の浅間神社には狛犬さえなく朝からハズレ。どうせ来たならと、その山頂まで行ったが、あったのは私にとっては興味外の皇族が来たという記念碑。それでも、山頂からの鹿沼市街地展望はすばらしく、しばらく眺めていました。その後は、麓にある日蓮宗徳蔵寺へ行く。日蓮宗寺院だけに石仏はあてにせず、ヒゲ題目の立派なものでもあるかと期待すれば、それに応えるように門前に立派なヒゲ題目塔がありました。また、境内には顔が剥離しているが鍾馗様の丸彫り像があり、これには思わずニンンマリ!
 そして少し北へ行き、本日最初の寺院訪問となる曹洞宗光太寺さんへ到着。対応に出られましたお母さんがすばらしい人で、前回のような同じ曹洞宗の瑞光寺さんとは雲泥の差。「今日は、お寺さん巡りに出かけて本当に良かった」と、心から思いました。許可を得て、早速に境内の六地蔵や十九夜さんを調査し、墓域に向かうと、そこには何とも酷い汚れようだが、大きく刻まれている主銘文が刻まれているのがわかる。加えて、そのある場所がまたひどい所で、お得意の泥落しさえ今回は止めようかとも思ったが、それにしても立派な自然石で、主銘文の脇にも何か文字がある。そうなるとどうしても気になり、また庫裏に戻ってお母さんに碑の掃除許可を頂いて、相変わらずのカメノコを手に掃除開始。すると、最初に出てきたのは「文翼先生墓」。思わずわが目を疑う。「文翼先生」とあらば、それは鈴木石橋塾で、蒲生君平と並び称された石橋塾双頭の一人で、蒲生君平さえ尊敬したという宇都宮出自の人である。その、蒲生君平を語るに欠かせない「島 文翼」先生の墓がなぜここにあり、しかもこれまで何十年も誰も注目しなかったのだろうかが不思議になり、急いでまたしても庫裏に取って返す。今度は、お嫁さんが外出から帰られていてお母さんと一緒に対応に出られ、「それは私たちも初めて知った事実」と驚いている。私にしても、これがもう少し早く調べられたら「宇都宮市の碑」調査報告書にぜひ加えたかった人物の一人と、悔しがる。いずれにしても、お寺さんがいうには今まで誰も、それに気づいた人も、問い合わせや調査に来た人もいないと言う。「全く、こんなお宝を、鹿沼史談会の人達は何をやっていたのか」と、呆れる。それからは、水場と現場を往復して本気になって水洗い。それにしてもその汚れは酷く、ネバネバした泥となっていて、それを拭き落とすのに思いもよらない時間を費やした。もちろんその後はしっかりと手拓し、ついでにお嫁さん(またこのお嫁さんが素敵な方で、この光太寺の将来は希望に満ちるだろうと、本気で思う人である)に、ぜひ本堂の近くに移動し、皆様に関心を持っていただきたいとお願いする。何しろ、鹿沼の宝である鈴木石橋先生を語るには欠かせない蒲生君平と対の一人なのだから。そんな、現状での写真が上に掲載したものである。なお、その詳細はいつもの石仏巡り報告の方へ掲載する予定である。その他、隣に倒れている「栗原昌山先生之墓」も、ついでに手拓する。そんなこんなで、結局は光太寺さんに午後2時半までお邪魔してしまうことになり、昼食はその後に駐車場をお借りして取る。
 本日最後の訪問は、先週にお邪魔した寺町の雲龍寺さん。その折調査した資料をお渡ししながら、ついつい世間話に花が咲き、本当ならまだ調査しなければならない碑塔があるのだが、結局は何もしないまま4時半までお邪魔してしまう。今日は、光太寺さんでの手拓作業で疲れたとは言え、雲龍寺さんでも手拓しなければならないのに世間話だけでお寺さんを後にして帰宅するとは、何とも忸怩たる思いである。次回からは、老体に鞭打ってもう少し本気になって調査しようと反省する。