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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2013年4月13日も鹿沼市の碑調査が主でした。

2013年04月16日 | Weblog

2013年4月13日は、朝早くから鹿沼市の教育碑文調査に行ってきた。今日も風が吹いていたのだが、鹿沼市でも遠くへ来たので強引に手拓をした。何とか、まあまあの拓本が採れて満足。その気分爽快に誘われて、手拓が終わってから近くの姫宮神社へ本当に暫くぶりに行ってきました。尤も、それにはそれなりの目的があって、それが上記の「男體山」碑です。本体の高さだけで210センチもある大きさ以上に、これを揮毫したのが「島易親」号を「君龍」という人物で、彼は幕末に江戸の昌平黌分校(正しくは日光学問所)として日光へ出来たときに教授として赴任し、江府が終わると共に宇都宮へ出てきて二荒山神社と関係を持ち、やがて彼の出身地である上三川町へと帰郷し、そこの白鷺神社神官となった。もちろん、それだけでは食べていけないので下帷した。
そんな関係から、これを建立しようと計画した鹿沼市草久の姫宮神社氏子達は、宇都宮の二荒山神社へやってきて、それに相応しい人物を推薦してもらい、この男體山の文字を当時は日光から宇都宮へ移ったばかりの島君龍が揮毫することになったのだろうと推測される。そうそう、この男體山碑の紀年銘は慶応三年龍集丁卯八月穀旦となっている。なお、彼の墓碑が白鷺神社西側の墓地に建立されていてそこには彼の経歴碑文が記されている。これで、鹿沼市の男體山碑の注目すべき揮毫者は、野沢町神明宮の菊池教中についてのものとなるので、その署名と落款を手拓したくて来た訳である。それが終えてもなお、お昼にはまだ時間がある。そこで、前回も山の中にあると言う庚申塔を探しに、日光市との境になる山の中の峠まで足を伸ばし、車を降りて人っ子一人いない山の中を探索するも見つけることが出来ずに退散。深い山の中で、もちろん目標物も無いので探しようがない。それでも、次回もこの近くを通ったときは最期の再々調査をしてみたいと思っているが、多分見つけ出すのは無理だろうと思っている。何しろ、山へ入るないには「熊注意」の看板が沢山なりながら、その山の中へ入るとそんな看板さえない有様なのだから、やはり私でも一人での山の中は少なからず躊躇してしまう。
さて、午後はいつのも大芦神社敷地で昼食とし、そこから方向違いに遠くなるが移動して見野地区へ行き、菊沢西小学校の校庭に建立されている「渡辺千代作」先生の報徳碑文調査。生憎と、午後では逆光となって写真さえ上手く写らない。また、建立が昭和38年ということもあって、手拓するまでもなく全て手写することにしたが、最期の段になって、篆額の写真が逆光でなんとしても写らない。仕方なく、その篆額だけは手拓してから帰宅する。
次回は、鹿沼の教育芳躅碑調査予定もあと2基となったので、よほどのことが無い限りそれを終わらせようと思っている。まだ、手拓未了の碑があるのだが、ここまで来たら調査が最優先として‥。

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