石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2013年5月6日・暫くぶりに鹿沼市を離れて栃木県南部へ石仏巡りに行きました

2013年05月06日 | Weblog

今日6日は、今年の大型連休最終日ということもあり、ここのところの栃木県鹿沼市の石仏巡りから離れて栃木県でも最南端の野木町へ最初に行く。その目的は、長いこと近世宝篋印塔が4基もあることを過去に庚申塔等の石仏巡りで訪れた時に確認していながら、ついつい遠いのでその内と言いながら歳月だけが過ぎていたのだ。もうそろそろ、野木町の近世宝篋印塔の纏めに入ろうとして、今回は本気になって出かけることにした。。その場所は、庚申塔に興味がある方なら一度ならず訪れている法音寺さん。着いたのは朝の8時半と言うこともあって、住職さんものんびりしておられて調査お願いも快諾していただいき、早速に調査開始。何しろ、4基もあるのだから!。1基づつ丁寧に手写していく。その中の1基に、「堕」とすべきところが明らかに「随」となっていて、思わずニンマリ。それでも4基の銘文手写も順調に進んで11時に終わってしまった。
さて、それから向かった先は隣の藤岡町(今は栃木市と合併してしまった)の部屋地区にある円城寺さん。ここにも江戸前期の庚申塔があるので、或いは行った方がいらしゃるかもも知れません。この円城寺さんの無縁石塔群中にも、4基の近世宝篋印塔の一部が納められている。無縁塔群ということもあって、靴を脱いで素足で調査開始。しかしいかんせんにびっしりと並べられた無縁塔の中にあるので、4面の経文を読むのに四苦八苦。しかもそれが4基。つい夢中になりすぎ、昼食時間も忘れて手写に没頭。それでも、この無縁塔の中の4基も午後の2時に調査が終わる。その中に享保年間の近世宝篋印塔に「鬼宿日」の銘を見つけて思わぬ拾い物と、ここでもニンマリしたのは言うまでも無い。その他の1基は個人墓域にあるので、こいつの手写は、ささっと終わってしまう。それから巴波川土手へ行って、本当に遅い昼食時間とする。今日の予定では藤岡町中心部へ行って、藤岡神社にある碑文の手拓をしようと考えていたが、午後ということもあって風が強く吹いている。また、それ以上に一日で9基の近世宝篋印塔の経文手写は初めての事。今までで一日での調査は最高5基だったので、何ともイヤハヤと言ったところで、体力も限界に来ていたので、潔く諦めて帰路に着く。それにしても、今日の走行距離は100キロメートル。車の運転が嫌いな私としては、一日に運転する限界は100キロと言ったところなので、本当に暫くぶりにその運転疲れもありました。ここ数年は、宇都宮市だ鹿沼市だと近場ばかりの石仏巡りに終始していたのでなおさらである。
そうそう、ここへ掲載したのは、最初に訪れた法音寺さんの近世宝篋印塔の一部である。また、次回の石仏巡りは多分鹿沼市に戻ることになるかもしれない。先日5月4日に、鹿沼市の調査済み石碑で手拓がまだのうちの1基を採ってきたので、あと2基が残っている。そいつを片付けない限り、何となくスッキリしないし、一冊に纏めることができないでいるのだから。